〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/08 (日) 

旅 順 口 (二十二)

その広瀬武夫が、閉塞船を駆って旧知のマカロフ中将の守る旅順口へ行くというのはそれそのものがすでに数奇である。
さらに数奇なことは、マカロフは広瀬ら第二回閉塞が何隻で何日にやって来るという、日まで正確に知っていたことであった。
露探ろたん
と、当時、日本で言われた言葉がある。ロシアのスパイのことで、東京や佐世保でずいぶん活躍したらしいが、その実体は戦後もついに分からない。第二次閉塞行のことは、この種の諜報によって旅順に知られていた。旅順にすれば、待ち伏せるだけでよい。
待ち伏せのための用意を、マカロフは抜かりなくやった。例えば閉塞船が港口に接近することを防ぐために、逆にロシア側がその航路とおぼしき辺りに汽船を沈めておくことである。マカロフはみずから現場を監督し、ハイラル、ハルビンという二隻の汽船を沈めさせた。さらに機雷も沈めておいた。また、閉塞防御用の駆逐隊を二隊、待機させた。
日本側も前回の経験により、閉塞船の前甲板に各二門づつ機関砲をそなえつけた。これは港口付近で妨害に出てくる敵駆逐艦に対抗するためであった。
根拠地出発は、三月二十四日の予定であったが、この日は水域一帯は濃霧にとざされ、風浪もはげしかったため、延期した。この日、真之は広瀬をその座乗船の福井丸に訪ねている。
広瀬は、 「サルーン」 のストーヴわきに真之をむかえた。真之はまた・・ をあぶりつつ、
「もし敵砲火がはげしすぎれば、さっさと引っ返す方がよいな」
と、前に言ったことを繰り返した。
広瀬は、お前はいつもそれだ、実施部隊というものは作戦家とちがい、生還を期しちゃ何も出来ない、成功のカギはただひとつ、どんどん くというよりほかはないのだ、と言った。
二十六日午後六時半、閉塞船の四隻は根拠地を出発した。二十七日午前二時、老鉄山の南方に達するや、千代丸を先頭に単従陣をつくり、福井丸、弥彦やひこ 丸、米山丸の順で港口に向かって直進した。
夜霧がやや濃く、月色も霧のためぼんやりしている。閉塞には条件がよかった。各船とも広瀬の言う 「どんどん」 行った。
旅順要塞の探照燈が先頭の千代丸を発見したのは、午前三時三十分である。旅順の空と海は閃光せんこう と轟音でつつまれた。
ロシア側の戦史は言う。
「すでにわれわれは数日前からこの敵襲を予知していた。このため哨戒艦二隻が、陸上砲台と緊密な連絡を保ちつつ外洋を監視していたが、午前二時十分 (日本側と時間が違う) 砲台の探照燈は、暗い洋上に波を立てて接近して来る船影をとらえた。先頭は、千代丸である。そのあとに一定の距離をおいて他の三隻が単従陣で進んで来る。
敵は闇中ながら、よくその船の位置を測定し、正確に進行方向を維持して来る。やがてわが砲台および各艦はこれに対し猛烈な砲火をそそいだ。しかしあまり敵に大きな損害を与えるにいたらなかったらしく、各船は依然として同一針路を保持しつつ進んで来る」

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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