第一回閉塞はほぼ失敗に終わったが、兵員の損害は、意外なほど軽微であった。東郷はこのことに気をよくした。 「さらに続けたいと思います」 という島村参謀長を通しての有馬良橘の願いを、彼は容
れた。 大本営も、このことに積極的になった。さっそく閉塞船の準備をした。汽船はくず船だから、金はあまりかかからない。そこへ石を詰めたりセメントを入れたり爆装したりする方にわりあい金がかかった。この程度のことでも、日本の戦時財政では、まり小さくない負担だった。 第二回は、四隻選ばれた。 指揮官は、前回と同じである。下士官以下は、一度行った者は二度とやらせないというのが本則で、将校は何度でも行く。総指揮官は有馬良橘。それに広瀬武夫、斉藤七五郎、正木義太である。 「敵も、今度は準備するだろう」 と、真之は、三笠に訪ねて来た広瀬武夫に言った。第一回のような、いわば敵の不意を突くというようなことにはなるまい。 「そのうえ、そろそろマカロフ中将が旅順に着任しているはずだ。旅順の士気は一変するに違いない」 真之は、言った。 ステパン・オーシポウィッチ・マカロフ中将は、ロシア海軍の至宝といっていい。 彼は正真正銘のスラヴ人で、しかもロシア海軍にとって例外的な存在であることは、貴族の出身でなく、平民の出身であることだった。帆船時代の水夫セーラー
からたたきあげ、しかもたたきあげに見られるような単純な実務派という人でなく、ヨーロッパのすべての国の海軍を見まわしても、マカロフほどの理論家はいない。実際から理論を抽出ちゅうしゅつ
しさらに実際に戻して練り直し、そういう作業をくり返して体系化するというのがマカロフ理論で、彼の 「戦術論」 は世界の名著であり、真之も一時期、熟読したことがある。ついでながらマカロフの著述は、海軍の専門分野だけでなく、海洋学や造船学の分野にまで及んでおり、その点からいえばロシアが持つ最も有能な学者といっていい。 しかもこの学者はおそろしく筋肉的で、若い頃はマストに登るのがたれよりも早く、かまたき仕事から司令長官まで一人でつとめよと言われればやってのける人物であり、そういうことや、平民出身ということなどもあって、下士官や水兵の彼に対する人気は圧倒的であった。 彼が旅順へ着任したのは、三月八日である。前任のスタルクと交代した。 マカロフはきわめて積極的な提督で、彼の着任とともに旅順艦隊の士気は見違えるほどにあがった。 広瀬は、マカロフを知っている。マカロフがクロンシュタット鎮守府の長官をしていた頃広瀬は訪ねて行って会っているのである。 「精気にあふれたような老人だった」 と、広瀬は真之に言った。 |