この閉塞は、第一次閉塞といわれる。結果としてはうまくゆかなかった。 月が、午前零時半ごろに落ち、海上が暗くなった。月光にかわって、敵の探照燈がかがやきはじめた。黄金山、城頭山、白銀山などの砲台からの探照燈が港口外の洋上を掃きつづけ、ちりくずの接近も許さない。 ステバーノフの
「旅順口」 によると、 「海上を掃いていた探照燈の光芒のむれが、突如一ヶ所に集まると、そこに一隻の大きな汽船を発見した。汽船は、老鉄山下の海岸沿いに港口へ忍び寄りつつある」 ということになる。 この汽船が、総指揮官有馬良橘が座乗している天津丸であった。 幾条もの探照燈が天津丸をとらえつづけ、そのいけにえに対して、あらゆる砲台から砲弾が送られた。 天津丸の船上は砲弾のはじける音や、命中弾の爆発で地獄のようになった。さらに探照燈が操舵員
の目をくらませ、どこへ船をやってよいかわからない。 このため港口に達することが出来ず、それよりはるか手前の老鉄山の下の岩礁へ船首を乗り上げてしまい、擱座した。有馬としてはやむを得ない。無意味ではあったが、ここで船を爆破することにした。 そこへ後続の閉塞船がやって来る。 「右へ、右へ」 と、有馬は船上から後続船に呼びかけた。広瀬の報国丸は面舵おもかじ
をとり、つづく仁川丸も面舵をとった。 要塞砲はうなり、この報国、仁川の両船に砲弾を集中した。広瀬の報国丸が、唯一の成功例として港口の燈台下まで進み、そこで擱座した。しかしとても塞ふさ
ぐにいたらない。 広瀬に続いた仁川丸は、右へ回りすぎ、しばらく方向をうしなった。やがて港口よりやや離れたところで自沈した。 これらに続いていた武陽丸は、大尉正木義太が指揮をしている。弾雨の中をあえぎつつ進んでいたが、眼前に船を見た。擱座していた。先頭船の天津丸であった。 「ここが港口か」 と、錯覚した。やがてそうではなく天津丸が前進中に擱座したものと分かり、その横を通り過ぎて行くうち、最後尾の船である武州丸がふらひら出て来た。武州丸は敵弾の為に舵機ををくだかれており、航行の自由を失っていた。しかし正木大尉には僚船のそういう様子が分からない。 僚船武州丸はこれ以上の操船が不可能であったため、西口付近で自爆してしまった。 武陽丸の正木大尉は、 「ああ、あそこが港口か」 と、錯覚した。この錯覚以外は、正木大尉の処置はきわめて沈着だった。船を進めて僚船武州丸の横へ行き、相ならび、停船した後、キングストン弁バルブ
をひらいて自沈した。 「武装なき汽船五隻打ちそろうて敵港閉塞におもむくがごときは空前の壮挙にして、その効果たる、もとより物質のみに存するにあらず」 と、祝電を東郷に打ったのは、海軍軍令部長の伊藤裕亨であった。 |