閉塞隊の五隻は、二月二十三日の薄暮、円島
の東南方二十海里の洋上に集まった。 ここを出発点とし、諸隊がそれぞれの航路をとって旅順へ行くことになる。 連合艦隊も彼らを見送るためにこの洋上に集結した。いよいよ出発というとき、三笠の軍楽隊が奏楽し、各艦では乗組員が登舷礼式をもって万歳を三唱した。 護衛のための第一駆逐隊が五隻の前衛になって進み、水雷艇千鳥以下四隻の第十四艇隊は衛艇としてその五隻の右側に位置し、第九艇隊はそれに続いた。 陽ひ
が落ち、上弦じょうげん の月がかかった。風浪の強かった前日に比べると、海はまず凪な
いでいる。総指揮官有馬良橘中佐の乗る天津丸を先頭に、広瀬の報国丸、仁川丸、武陽丸、武州丸とつづく。 広瀬は、夕食は船橋ブリッジ
でとった。すでに秘密海図その他のものは焼いてしまっており、夕食後はすることがない。 「どうだろう、栗田君」 と、広瀬は、大機関士の栗田富太郎 (のち海軍機関少将)
をかえりみて言った。 「何か祈念になるものを書き残したいのだが」 と言ったが、この本当の理由は広瀬にしか分からない。広瀬の言うのは、船橋に大きな幕を張りまわし、しこへペンキで何か書いておきたいというのである。 (何を記念に書き残す事があるのだろう) と栗田は不審に思ったが、それを手伝った。 やがて広瀬が幕に大きく書いたのは、なんとロシア文字であった。 それが、船橋に張りめぐらされた。この船が港口に沈んだとき、おそらく船橋だけは海面上に出る。ロシア人はそれを読むであろう。 「なんと、お書きになりました」 と、栗田大機関士が聞いた。 栗田は後年まで語ったが、広瀬のその時の表情は、快活な中にも奇妙なはにかみ・・・・
があったという。 原文は残っていないが、広瀬がこういう意味だと栗田に語ったところでは、 「予は日本の広瀬武夫なり。いま来きた
りて貴軍港を閉塞す。ただしこれはその第一回たるのみ、今後、幾たび来るやも知れず」 と、いう。 この報国丸が沈んでから、ロシア側はこれを読んだ。それについて、前記ブーブノフ海軍大佐の記録では、 「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君。請う、余を記憶せよ。余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり。報国丸をもってここに来る。さらにまた幾回か来たらんとす」 と、書かれていた。 広瀬武夫がわざわざこれを書いたのは、旅順港内に自分のペテルブルグ時代の知人が多くいることを想定してであった。たとえばボリス・ヴィルキツキー少尉がいる。さらにはこの字幕がペテルブルグに伝わることによって、彼のアリアズナに最後の挨拶を送ろうとするものであったろう。 |