〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/07 (土) 

旅 順 口 (十八)

じつはそのボリス・ヴィルキツキーという青年のその後とその所在を広瀬は知っているのである。
ヴィルキツキーはその後少尉に任官した。
彼が配属されたのは戦艦である。彼のとって幸福であったかどうかは別として、その戦艦はロシア海軍最大最新のツェザレウィッチ (一二九一二トン) であり、同少尉が配属されて程なくこの艦は東洋に回航され、旅順港に入ったのである。
開戦前の年の暮れであった。
ボリス・ヴィルキツキー少尉は、さっそく広瀬との約束を守り、広瀬がいるであろう佐世保に手紙を書いた。
「私は旅順にいます。戦艦ツェザレヴィッチの乗組みです」
という文面だった。
広瀬はこの手紙を佐世保碇泊中の戦艦朝日の水雷長室で読み、露都時代、彼にやさいかったすべての人びとを思い出して感慨無量だった。とくに彼の生涯にとってただ一人の女性であったアリアズナのことを思った。記憶力のいい広瀬は、アリアズナが彼に送った愛の詩をすべて暗誦することが出来た。
この時期、広瀬は多忙で、旅順にいるヴィルキツキー少尉に返事を書くことが出来なかった。
その直後、開戦になった。
戦艦ツェザレウィッチの不幸は、開戦早々に行われた日本軍の水雷夜襲で、艦底を破られ擱座かくざ したことである。
その水雷夜襲の翌九日、日本の連合艦隊が旅順口外に接近、戦艦群の巨砲による六千メートルの遠距離射撃によって港口付近のロシア艦隊を砲撃したが、広瀬の朝日もこれに参加した。広瀬は艦上から敵のツェザレウィッチをさがしたが、前面に大破して傾き座礁ざしょう している戦艦レトウィザンが邪魔になってよく見えなかった。
ヴィルキツキー少尉は、浅瀬にあぐらをかいた新造戦艦にいる。日本の連合艦隊がやって来たとき、擱座しながらもこの艦は舷側げんそく の六インチ砲を間断なく撃ちあげた。露都時代、広瀬とヴィルキツキーがひそかにおそれていたその現実がやって来たのである。
広瀬は今、閉塞船報国丸の船長室にいる。手紙を書いている。
まず、地上でふたたび会うことはないであろうその愛人のアリアズナに書いた。彼女への手紙の文面は、今は知るすべもない。
ついで旅順にいるボリス・・ヴィルキツキー少尉に書いた。この手紙の内容は、わかっている。広瀬がこの手紙を書いているとき、たまたまロシア時代に一時おなじだった朝日の加藤寛治ひろはる 少佐がやって来たので、広瀬がその内容を話したのである。
「いあm不幸にして貴国と砲火を交す関係になったことはまことに残念である。しかしわれわれはそれぞれの祖国のために働くのであり、個人としての友情には少しも変わりはない。私はすでにさる九日、軍艦朝日にあって貴国艦隊を熱心に砲撃した。それさえ互いの友情から見れば尋常ではないが、今また閉塞船報国丸を指揮し、旅順港口を閉塞しようとしてその途上にある。わが親しき友よ、すこや かなれ」
この手紙は通信艇に托され、数ヶ月の後中立国経由で、同少尉の手に届いた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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