〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/07 (土) 

旅 順 口 (十四)

かといって真之の思案は、振り子のように動いている。ときに、
── やはり閉塞しかないのではないか。
と思ったりした。このあたり、彼ほど思い切りのいい男としては不思議なほどであった。
参謀は、戦争と戦闘の設計家と言われている。刻々移る戦いの様相に応じて刻々設計を変えてゆく。それを刻々実施部隊が実施する。その設計の良否によって死者の数が違ってくるのである。
「作戦ほどおそろしいものはない」
と、真之は常に言った。この人物は、軍人としてはやや不適格なほどに他人の流血を嫌う男で、この日露戦争が終わったあと、 「軍人をやめたい」 と言い出した。僧になって、自分の作戦で殺された人びとを弔いたい、というのである。海軍省はあわてて真之に親しい人びとを動員して説得にかかったが、真之はきかず、一時発狂説が出たくらいであった。ともかくしかし海軍省としては真之に坊主になられては迷惑であった。彼の言う事を海軍が道理として認めれば、一戦争が終わるたびに大量の坊主が出来上がることになる。
そういうところがあるだけに、彼は閉塞作戦の唯一の権威でありながら、これを計画化することについては弱気で、ときにははっきりと、
「運と兵員の大量の死をはじめから願って立てるような作戦なら、作戦家は不要である」
と、言ったりした。
ところでこの時期、参謀として彼の上位に先任の有馬良橘中佐がいた。有馬はやがて他へ転じ、真之が少佐のままで先任参謀になるのだが、この時期は有馬が先任である。
有馬は最初から閉塞論者であり、東郷にも独断で準備をすすめていたことはすでに触れた。作戦家としてのモラル論については有馬は、 「立案した私自身が隊長として死地に飛び込むならいいではないか。それが理外の理というものだ」 と言った。
この閉塞作戦がいよいよ二月十八日に命令されるのだが、作戦については慎重な準備が行われた。そのひとつとして三笠艦上に実施部隊の各指揮官が集められて会議が開かれたのだが、その席上、真之はじつに弱いことを言っている。
「もし途中で見つけられて猛射を受けたとき出直すということで引き揚げたらどうか」
それを聞いて実施者である広瀬武夫が 「それはだめだ」 と立ち上がり、
「この作戦では弱気は禁物である。断じて行えば鬼神もこれを避くということがある。敵の猛射というが、猛射は当然の事態だ。骨がらみになっても押して押しまくってゆく以外に成功は開けぬのだ。貴様のいうようなことでは、何度やっても成功しない」
と、反対した。
最後に東郷は決を下した。その中間をとった。
「帰るか行くかは、その状況によって各指揮官の独断に任せる」
さらには、実施後の脱出救助については、東郷は汽船一隻について水雷艇一隻をつけ、その各水雷艇を港口の外で待たせておくなど万全の方法をとった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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