「旅順は閉塞する以外にない」 というこの非常作戦をつよく言い出したのは、じつは秋山真之でない。真之は米西戦争の艦船武官としてサンチアゴ港の閉塞作戦をつぶさに実見し、海軍省を驚かせたほどに科学的なレポートを書いた。その意味ではアメリカが考案したこの特殊作戦の日本における唯一の権威であった。 「秋山は、なんといっても閉塞を知っている」 ということが、彼が艦隊参謀に抜擢
された理由の小さな一つかも知れなかった。 ロシアと戦う場合、当然海軍の第一期作戦は旅順港との格闘になる。海軍軍令部の案として 「閉塞」 ということは早くかあった。 旅順口に古船を沈めてそのびん・・
の口をとざしてしまい、港内の敵艦隊を物理的に閉じ込めてしまうのである。 旅順の港口はずつに狭い。その幅は二百七十三メートルで、しかもその両側は底が浅いために巨艦が出入り出来るのはまん中の九十一メートル幅しかない。そこへ古船を横に並べて、五、六隻沈めてしまう。 「それ以外にないのだ」 ということを、開戦の前からとなえていたのは東郷の参謀の一人である有馬良橘中佐と、戦艦朝日の水雷長である広瀬武夫少佐である。 有馬が、主導的にやった。彼は実行力に富んだ男で、 「つべこべ議論をするより準備をしてしまえ」 ということで、開戦前、艦隊がまだ佐世保にいるときから半公式のかたちで準備した。東郷はそれに対して常ににえきらなかった。 有馬は、五隻の汽船まで決めてしまい、それに積んで行く爆薬その他も用意し、五隻に乗せた。 それらの準備をやったのは有馬ともう一人いる。やはり東郷の参謀で松村菊男大尉であった。この二人は、参謀でありながら実施部隊の指揮官になつるもりであった。東郷はこの点でも気に入らなかった。 ところが松村菊男大尉が、二月九日の連合艦隊主力による最初の旅順攻撃のときに、三笠の後艦橋で負傷し、佐世保海軍病院に送られたため、有馬としては松村にかわるべき士官が必要になった。 それを、広瀬にもちかけた。広瀬はかねて同じことを考えていたので、一議もなくこの計画に乗ってきたのである。 ところが
「閉塞」 の権威であるはずの真之は、実際はにえきらなかった。 彼は旅順要塞の実情が分かって来るに連れ、 「サンチアゴ港でこそ出来たが、旅順要塞はまるで違う。サンチアゴ港千倍の砲力を持っているし、第一港内の艦隊がスペイン艦隊でなくロシアの大艦隊だ。やれば必ず死ぬ」 と、言い出したのである。 真之は
「流血の最も少ない作戦こそ最良の作戦である」 と平素言い、閉塞には冷淡になった。しかし自分の先任参謀の有馬がみずからやるということを、真っ向から反対も出来ず、煮え切らなかった。 |