この旅順口外での日露間の最初の主力決戦は、どちらも一艦も沈んではいない。ひとつには、双方射程距離が遠すぎたことにもよるであろう。いまひとつは日本艦隊が港口外を通過して行くだけの時間が戦闘時間で、ほぼ一時間であり、時間が短すぎたことが、双方の傷を軽くした。 命中弾をより多く送り込んだのは日本側であったが、これは必ずしも射撃能力の高さをあらわさない。ロシアの諸艦にとってはオカリを下ろして油断していたところへ日本側が襲いかかった。ロシア側はイカリをを上げる時間、動く事が出来ず、日本側からすれば不動の目標になり、撃ちやすかった。 ロシア側を採点すれば、巡洋艦の一、二がよく働いたが、戦艦の艦長は年配者が多いせいか、みな鈍重であった。総じて海軍は不活発であり、むしろ陸軍の要塞砲兵の活躍の方が高く評価されてよい。ステッセルは鼻が高いであろう。 「まあ、失敗でした」 と、秋山真之は、旅順口を離れつつあったとき、島村参謀長に正直に言った。この作戦の目的は敵をおびき出すところにあった。るいにおびき出せず、目的は果たせなかった。失敗である。 が、ロシア海軍側から言わせると、この戦闘は艦隊の士気をいちじるしく衰えさせた。 彼らはアレクセーエフ極東総督から、 「艦隊は要塞砲の射程外に出てはならない」 という命令を受けている。このためあれだけの砲戦を交わしながら、兵員の実感としては日本軍にたたかれっぱなしで終わったという感じが抜け切れなかった。日本艦隊が艦尾を見せて去ろうとしているとき、ロシア軍はそれを追跡することが出来なかった。 これは戦闘員の心理の上から見て大いに不利であったろう。 ロシア海軍史上の名将と言われているナヒーモフは、一八五三年、クレミア戦争の時、黒海艦隊を率いてトルコ艦隊と決戦し、これに勝った。のち彼は重傷を負って死ぬが、彼の残した言葉に、 「敵に対しては見つけしだい、攻撃すべきである。この場合、彼我の兵力を考慮すべきでない」 ということがあるが、旅順におけるロシア海軍の首脳はこれを忘れ、艦隊保全主義を厳守するあまり、軍艦の二隻や三隻が沈むことよりもはるかに大きい損失である兵員の士気沮喪
という重大な問題を忘れた。 東郷は、朝鮮の仁川港外を基地にした。 ここへ艦隊を入れた。 「出たがらぬ敵を外洋に誘い出そうとする仕事は、よほど忍耐がいる。それと連綿不断れんめんふだん
の猛撃の持続が必要である」 と、東郷は、同基地で各戦隊司令官を集め、訓示した。 二日後は、荒天であった。 海上は大浪がうねり、風が強く、雪さえ吹雪いた。この荒天を突いて、わずか三七五トンの駆逐艦速鳥はやとり
と朝霧がふつう困難と言われる荒天航海に乗り出し、黄海を突ききり、旅順口に飛び込んだ。すぐさま、水雷を発射して帰ったが、あとで旗艦ペトロパウロウスクを大破させたことが分かった。このことも港内にすわり込んでいるロシア艦隊の士気を弱くした。 |