洋上の軍艦は、陸上の要塞砲と砲戦を交わそうとしてもとうてい太刀打ちが出来ない。それが鉄則になっている。 東郷は、旅順要塞とは戦いたくなかった。しかしその要塞砲の射程内にまで踏み込まなければ、港口の艦隊に砲弾を撃ちこむことが出来ない。 {やっかいな課題だ」 と、島村参謀長はこれについてつねに真之にこぼしていた。真之はそのつど、 「いずれ敵艦は港内に入ります。その時に港口を閉塞するしかないかも知れませんね」 と、言った。 しかし東郷がそれを許さないのである。閉塞ということのあまりにも冒険的な作戦にあっては、実施者の生還はまず期しがたい。兵員に死を強いるような作戦は作戦者の無能を意味するものであり、それは作戦ではない、と東郷は思っているらしい。 海戦は続いている。 ロシア側の海岸砲台はことごとく咆
え、その艦隊の動きも活発かっぱつ
になり、要塞砲と艦砲が、東郷の艦隊を火と煙と水柱で包んだ。 煙といえば、味方の砲煙もある。それらが天と海を暗くし、敵味方の軍艦を見さだめることも困難になった。 三笠は、初めて掲げた戦闘旗をすぐ撃ち落されてしまったが、あとすぐ新たな旗を掲げた。その旗も、やや高目たかめ
の砲弾がもって行った。三番艦の戦艦富士も二弾をくらい、砲術長が即死した。死傷十二人である。五番艦の戦艦敷島は一弾を受けて航海長以下十七人が瞬時に負傷し、殿しんがり
を走っている戦艦初瀬にも二弾が命中し、航海長以下十六人が死傷した。マストに肉が飛び、甲板に血が流れ、どの艦の艦上も凄惨せいさん
な状況になった。 が、東郷は平然としている。 彼は単縦陣という、いわば長蛇ちょうだ
のえんえんたる縦隊を率いて旅順口をかすめて通過しつつ、西へ行く。 その敵前を通過する時、各艦とも逐次回頭して南方に遠ざかるのだが、先頭の三笠が敵の射程から逃れ出たころ、上村彦之丞の率いる第二艦隊の第二戦隊
(巡洋艦編成) がちょうど敵前にさしかかり、砲戦を開始していた。 ロシア側にも、勇敢な艦長がいる。 三等巡洋艦ノーウィック
(三〇八〇トン) のフォン・エッセンというドイツ系ロシア人の若い中佐で、彼の勇猛さと操艦のうまさは、日露戦争を通じて敵味方の評判になった。 エッセンの部下の水兵は、旅順艦隊の中でも各艦がもてあました乱暴者が集まっており、エッセンはそれをよく統御し、彼の艦の士気はずばぬけて高かった。 そのエッセンのノーウィックが味方の群艦を離れて日本の第二艦隊の列目指して突進して来たのには、日本側も驚いた。三等巡洋艦といえば装甲もブリキのように薄く、二等巡洋艦より木造部分が多く、一弾でも当れば始末におえなくなる艦である。エッセンはいわば、甲冑もつけずにふんどし一本で斬き
り込んで来たような恰好だった。 |