日本が旅順を奇襲した夜、その旨を報じた電報がペテルブルグに入ったとき、ニコライ二世は夜分であったが、不機嫌ではなかった。 この英雄的な事業に憧れる皇帝は、アジアや日本に対する感覚は極東総督アレクセーエフと少しも変わらなかった。むしろ寵臣
アレクセーエフから、ロシアの大膨張ぼうちょう
主義についての景気のいい宣伝を聞きすぎているために、 「猿」 が仕掛けて来た戦争が、大ロシアが着手したアジア経営のための輝ける門出になるだろうという程度のことは思ったに違いなかった。まさかこの開戦が結局は革命を呼び、彼とその一族の悲惨な死につながろうとは夢にも思っていなかった。 それどころか、皇帝は、軍部に迎合的な大臣の一人で国内の警察を握っている内務大臣プレーヴェから戦争と革命についてのプレーヴェ独特の
「理論」 を聞いていたに違いなかった。 「いま国民の心の中に潜在している革命気分を一掃するためには、どうしても小さな規模の戦争が必要なのです。むろんそれに勝って、帝政の威信を示す必要があるのです」 ということであった。もっともこれはプレーヴェんp独特の理論というよりも、プレーヴェもその仲間である政治的冒険団が共有している理論だった。 皇帝は、プレーヴェのいう潜在的革命気分というものに鈍感であったが、しかしこのプレーヴェの冒険理論は聞いていたであろう。戦争をすることはロシアの内政と外政のふたつながらの面でいいことだと思っていたに違いなかった。 もっともウィッテが名づけた戦争好きの
「政治的冒険団」 は、現閣僚の中ではプレーヴェ一人に過ぎなかった。大勢ではなかった。やがて野戦軍司令官になってゆく陸軍大臣クロパトキンですら、プレーヴェに対して批判的で、対日戦争を急げというような意見を決して持っていなかった。要するに皇帝は少数意見に引きずられた。 九日の夜が明けると、皇帝は宣戦布告を発した。同時に、冬宮とうぐう
において盛大な祈祷式きとうしき
が行われた。ロシアの国教であるギリシャ正教は、この地上におけるどの宗教よりも荘厳そうごん
な装飾性に富んでいるが、この日の祈祷式はとりわけそうであった。 しかし、これに列席したウィッテによると、 「式場はなんとなく陰惨の気に包まれて、人々の意気ははなはだあがらなかった」 と言う。 式を終えて皇帝が便殿びんでん
へ行く途中、ボグダノウィッチ将軍が、この式場の陰鬱いんうつ
さをどうこうしようと思ったのか、大声をあげて、 「ウラー」 と、叫んだ。しかしこれに唱和した者はウィッテの見るところ数人にすぎなかったという。 貴族でさえ、この遠い極東で行われる戦争については無関心か、もしくは反対に近い気持を持っていた。まして国民の間では明白に不人気であり呪詛じゅそ
する者が多かった。 この国民の気分を盛り上げる為に内務省では、人を集めて示威行列などを催したが、いっこうに意気は揚がらなかった。 |