この時ロシアの極東総督アレクセーエフは、旅順にやって来ていた。彼は海軍大将としての礼装をし、海軍会館の大広間で幕僚や文官を集めて酒宴を開いていた。 彼は港口での砲声が起こったあと、港口から報告が来るまであわてなかった。それが日本の水雷攻撃部隊の奇襲であることが分かってからも、なお酒杯を離さず、あわてもしなかった。むしろ不審顔で、 「ほんとうに日本人が来たのかね」 と、報告者に念を押した。たしかに日本の駆逐艦でした、と報告者が同じ言葉を繰り返さねばならなかった。アレクセーエフほどロシアの強大についての不動の確信を持っている者はいなかった。彼は日本が開戦するかも知れぬということについてのあらゆる情報を持っていのに旅順港口の各艦に水雷防御網を張らせることすら、怠った。その提案が海軍部から出たとき、彼は、 「まだはやいのではないか」 と言ったほどであった。 アレクセーエフは海軍大将としては有能の評判はまるでなかった人物だが、極東総督という政治家としては大度量の男だったかも知れない。彼は日本軍の奇襲を知ってからでも、夜会を続けさせたのである。 ──
たかが、日本人だ。 と、彼は頭から見くびっていたが、それよりもこの場の彼の配慮は、たかが日本軍の駆逐艦が港口に飛び込んで来たくらいで部下を騒がせては士気にかかわるということであったらしかった。 旅順における陸軍の最高官は、旅順要塞司令官の陸軍中将アナートリイ・ミハーロヴィッチ・ステッセルである。 彼は官邸にいた。 港口で突如おこった砲声に驚きはしたが、しかしそれが何であるかを調べさせることをしただけであった。 「海軍の演習です」 という報告を真
にうけ、要塞に何の命令も与えず、この夜はきわめて日常的に就寝した。彼にとって最後の平和になるはずの夜であった。 考えられぬことだが、最初の砲声があって一時間余り経ってから、彼の官邸へもっとも正確な報告者がかけつけた。 報告者は、極東総督の幕僚からの連絡を受けたステッセルの高級副官ドミトリエーフスキー大佐であった。 彼の官邸の従卒にステッセル将軍を起こすように命じた。が従卒は、大佐殿が起こしてください、と頼んだ。 やむなく大佐は、将軍の寝室のドアを叩いた。出て来たのは、ステッセル夫人のウェラであった。 「日本人が港口にやって来ました」 と、大佐はつかんだだけの情報を、夫人に伝えた。 やがてステッセルは起き、午前二時司令部へ出た。 すでに幕僚が集まっていた。 ステッセルの指揮下には世界有数の大要塞があるが、しかしその要塞軍がいざ開戦という時能動的に動くための動員計画がまだ出来ていなかった。ロシアが、日本が立ち上がるなどということをまるで信じていなかったことは、この一事でも分かる。
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