仁川襲撃は、連合艦隊にとっては別働隊の仕事であったが、旅順を襲うことは、主力の仕事であった。 浦塩がすでに結氷期にあるため、ロシアの極東艦隊十九万トンという大海上兵力はほとんどが旅順港に入っていた。 これを撃滅せねばならないのだが、敵艦隊が洋上に出て来ない限り、要塞砲で守られているこの港に日本艦隊は近づくことが出来ない。 そこで、水雷戦術が重視された。 「駆逐艦に水雷を抱かせて飛び込ませる」
というのが、軍令部辺りで早くから予定されていた海軍戦術であった。しかし旅順の砲台の様子なり艦隊の様子なりが、いっこうに日本側にわからない。 「とても旅順はそういうあまいものではない」 と言ったのは、軍令部作戦班長山下源太郎で、彼は開戦の前年九月、芝罘
に出張し、戻って来て大さわぎして言った。山下の芝罘出張は旅順之様子をうかがうためのもので、この時期の状況下では、山東半島の芝罘から渤海ぼっかい
海峡をへだててはるかに観察するのがせいいっぱいのところであった。それでも海洋状況ぐらいはわかる。 「旅順口のあの狭い口に駆逐艦を飛び込ませるなど、それは冬季の海の状況を知らんから言えるのだ。例の三寒四温で、三寒の朔風さくふう
のひどい時は浪なみ があらくて、小さな駆逐艦は速力が出ず、よたよたする。そこをやられてはどうにもならぬ。旅順の警戒は厳重で、ノーウィック
(三等巡洋艦) などは毎日山東高角 (山東半島の先端) あたりまで顔を出して来る。これの餌食えじき
になってはどうにもならぬ」 山下は、こう言った。開戦前、東郷や島村、秋山にもそのことは言ってある。旅順の状況は、この山下視察の程度しか分からなかった。 それならば相当な護衛兵力を旅順砲台の射程すれすれのところまで進出させればいいだろうということになり、その護衛には連合艦隊主力そのものが当ればよい、というのが、計画の核心になった。 秋山真之は、この駆逐艦の飛込み作戦をやると同時に、のちに登場する港口にボロ汽船を沈めて閉塞してしまうという非常作戦の二つを併用するつもりであったが、すべて真之の計画することは許した東郷も、閉塞については、 「実施部隊は生還を期し難い。そういうことはやるべきではない」 とし、にぎりつぶしてしまった。 結局、駆逐艦の飛び込みだけになった。 |