漢城における仁川港の役割は、東京における横浜港に相当するであろう。横浜港が幕府の海港までは一漁村に過ぎなかったように、仁川港も、明治十六年の開港までは済物浦
という漁村に過ぎなかった。また日本における最初の鉄道が東京・横浜間に敷かれたように、朝鮮の場合も明治三十三年に開通した漢城・仁川間の鉄道が最初であった。 港は干満の差が激しいということのほかは、規模は雄大で、多数の船を収容することが出来る。 この時期も、多数いた。 軍艦だけでも英国軍艦タルボット、イタリア軍艦エルバ、フランス軍艦バスカルなどがそれぞれイカリを下ろしている。 それにロシアの二等巡洋艦ワリャーグ
(六五〇〇トン) に砲艦コレーツ (一二一三トン) がいた。 日本は、三等巡洋艦千代田が、これらの中に混じって孤艦でいる。 「千代田ほど苦しい目に遭あ
った軍艦はない」 と、この孤艦を救出に行く瓜生戦隊の参謀森山慶三郎はあとあとまで同情している。 千代田は去年十二月から居留民保護ために仁川に来ていた。 二隻の露艦も同様の任務で碇泊している。そのワリャーグは仁川にいる各軍艦のうち最大のもので、もし戦端を開けば小艦の千代田などは瞬時に粉砕されてしまうであろう。 しかも悪いことに、千代田はワリャーグとは最も近い場所におり、またコレーツとの関係位置も、間に他の艦船がいない。 千代田の艦長は大佐村上格一であった。村上は沈着な男で、全員に緊張を命じ、もしやむを得ぬときにはワリャーグと差し違えで全員死ぬ覚悟を持たせた。夜になると、ひそかに魚雷発射管の覆おお
いをとってワリャーグにねらいをつけ、夜が明けると覆いをかぶせて知らぬ顔でいた。この様子をワリャーグの方でも気づき、 「千代田はけしからぬ」 と、英国軍艦の艦長
(各国艦長の中での先任者) を通じて抗議を申し入れてきたりした。 やがて断交決定前夜の三日、かん・・
のいい村上艦長はひょとすると非常事態の到来が近いかも知れぬと思い、夜陰にまぎれてこっそり艦を移動し、英国軍艦のあたりまで行ってイカリを下ろした。 七日になった。釜山ふざん
付近で日本艦隊がロシア汽船を一隻つかまえたという電報に接し、村上はこれは開戦だと察したが、さいわいワリャーグはまだ事態を知っていない様子だった。 この夜十一時、千代田はついに脱出を決心し、にそかに低速で港口にむかいはじめたが、途中、港口の狭いところで千代田を監視していたワリャーグの艦首が眼前に迫り、このままでは接触するほかなさそうな状況になったとき、そばの英国軍艦が身をさけてくれててめやっと道が開き、港外に出た。 |