海軍に課せられたこの緒戦での任務は、旅順艦隊を襲って制海権を確立する事と、朝鮮の仁川に陸軍部隊を揚陸ことであった。 主力は旅順口へ行く。 この六日午前九時、連合艦隊主力は佐世保港から出撃した。まず千歳
(二等巡洋艦) を旗艦とする第三艦隊が出港した。千歳、高砂たかさご
、笠置かさぎ 、吉野の順で出て行く。それを在泊艦が登舷礼式とうげんれいしき
、万歳の声で送った。ついで第一から第五までの駆逐他、第九、第十四水雷艇が波を蹴ってこれに従い、さらに上村彦之丞かみむらひこのじょう中将の率いる第二艦隊の第二戦隊が、旗艦出雲いずも
(一等巡洋艦) を先頭に、吾妻あずま
、八雲、常磐ときわ 、磐手いわて
とつづいて出て行く。最後にこれら 「連合艦隊」 の中核である第一戦隊が、三笠 (一等戦艦) を旗艦として、朝日、富士、八島やしま
、敷島しきしま 、初瀬の順で出て行き、それに水雷艇隊などがつづいた。これらを、東京の軍令部から来た大佐山下源太郎が、全海軍を代表して見送った。 昼ごろになると、昨日まで各種艦艇であれほど混雑していた港内が、ほとんどからになった。 ただ数隻の中型艦が残っている。二等巡洋艦の浪速なにわ
に同高千穂それに三等巡洋艦の明石、新高にいたか
さらにただ一隻だけ大きいのが、一等巡洋艦の浅間 (九七五〇トン) である。 これらは瓜生戦隊と総称されており、陸兵を護衛して仁川に上陸させるべき役目をになっていた。 午後二時、瓜生戦隊は出港した。そのときはすでに二千二百人の陸軍の上陸部隊
(小倉、福岡、大村から集めた四個大隊) が、三隻の輸送船に収容されて艦隊と同じ方向を走っていた。 「いつの間に陸軍が現れたか」 と、水兵たちは驚いた。この瓜生戦隊の森山慶三郎参謀は、 「この三隻は佐世保のどこかの入江に隠れていたらしく、参謀である私ですら命令を受取るまで、その存在を知らなかった。陸海の連絡のよさはじつに見事だった」 と、語っている。 すべての艦隊が攻撃目標に向かって動いていたが、日本海軍の中でただ一隻だけ悲痛な運命に置かれている軍艦があった。 三等巡洋艦千代田
(二四五〇トン) である。 この千代田のみはこういう群の中におらず、この時期、外国にいた。 朝鮮の仁川港にいた。仁川とは漢城
(のちの京城、現ソウル) の外港であり、各国の艦船が多数碇泊しており、むろんロシアの軍艦も二隻いる。 千代田の悲痛さは、オトリになったことであった。日露断交の報せはむろん千代田に打電されているが、しかしそれを戦略上ことさらに仁川にとどめおいたのは、海戦による連合艦隊の秘密行動をロシアおよび他国に知られたくなかったからであった。 当然、港内で日露間の最初の海戦が行われるであろう。 |