〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/01 (日) 

砲 火 (十二)

連合艦隊参謀長は、海軍大佐島村速雄はやお であった。島村は土佐人で、明治七年の海軍兵学校入学である。
のち、元帥に進み、大正十二年没した。非常な秀才でその智謀は底が知れないと言われたくせに、軍人にはめずらしいほどに功名主義的なろころがなく、その生涯はつねに人に功をゆずることでつらぬかれた。天性ひろやかな度量のあった人物といえる。
「東郷には、島村をつけておけばよかろう」
というのが、山本権兵衛の判断であった。この場合、統合は統率をやる。島村の智謀が艦隊を動かす、ということであったが島村自身は、少佐秋山真之が参謀団に加わったので大いに喜び、
── すべて君に一任する。
と、ひそかに真之に言い、終始その通りにした。島村の考えでは作戦は天才がやるべきで、階級が上位だからといって自分のような者が小智恵を働かすべきではない、ということであった。
こういうあたりが、島村速雄の性格らしい。
日露戦争中、こんな挿話があった。連合艦隊から大本営へ送られて来る報告文がつねに名文であることに大本営担当の記者団が注目しはじめ、ついに読売新聞が、それが島村参謀長の筆であると信じて大いにほめたたえる記事をかかげた。島村はそれに驚き、わざわざ洋上から大本営の新聞掛の参謀小笠原長生ながなり 中佐に手紙を書き、
「小生一読呆然ぼうぜん たると同時に 冷汗背を流し申しそうろう 。ご承知のとおり小生の部下、別にその人ありてこれに当たりおり申し候」
と、真之がその人であることを言い、その記事のあやまりであることを読売新聞まで通じておいてほしい、と頼んでいる。
島村はそんな人物である。
日露戦争が終わってから、彼が連合艦隊参謀長であったために名声が大いにあかったが、しかしそれをいちいち否定した。ある公開の、それも記録として残る席上で、
「自分は日露戦争には、開戦から旅順陥落まで連合艦隊参謀長をつとめました。世上、日本海海戦までこの島村がやったように言われていますが、あのときは私は他に転じておってその職にはなかったのです。なににしましても、日露戦争の艦隊作戦はことごとく秋山真之がやったもので、旅順口外の奇襲作戦、仁川海戦、あるいは三次にわたる旅順閉塞へいそく 、第二軍の大輸送、ついで日本海海戦に至るまでの作戦とその遂行はすべて秋山の頭から出、彼の筆によって立案されたもので、その立案せるものはほとんどつねに即座に東郷大将の承認を得たのであります」
と、語っている。
ついでながら島村参謀長の下に先任参謀として有馬良橘りょうきつ 中佐がいた。この有馬が旅順閉塞後大本営付になって艦隊を去ったあと、東郷と島村は相談して後任を補充することをやめ、少佐の真之を異例ながら昇格させて先任参謀にした。三十七歳の男が、日本の運命を決する海上作戦を一人で担って行くことになったのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next