山下源太郎は、米沢のひとで上杉家の旧藩士出身である。旧藩校興譲館の後身である私立米沢中学校に学んだとき、英国人教師が、英国海軍の強大さを語り、 「それにひきかえ、日本には海の名将というものが古来一人もいない。その海軍は実に貧弱である」 と言ったことから海軍を志した、とひとつ話に語った。明治十二年、築地
の海軍兵学校に入った。定員は、二十九人であった。 日清戦争のときは、彼は横須賀鎮守府の大尉参謀であったが、中央に対し重大な不満があった。当初、海軍省の基本戦略として、清国の
「鎮遠」 「定遠」 のを恐れるあまり、いわゆる 「佐世保退守主義」 をとり、艦隊を佐世保港から出撃させない計画であった。 山下は 「攻撃せずに勝てるはずがない」
として艦隊司令長官伊東裕亨すけゆき
を説き、その承諾を得て東京へ行き、海軍大臣西郷従道つぐみち
とかけあって退守主義を捨てさせようとした。 退守主義をとったのは、佐賀藩海軍の当時の軍令部長中牟田なかむた
倉之助であったが、西郷は開戦前に中牟田をやめさせ、猪いのしし
武者のきらいすらある薩摩出身の樺山資紀かばやますけのり
を後任にすえることによって、中牟田の消極戦略をすてた。 それから十年経つ。 いま山下は、軍令部の大佐参謀として東京から佐世保の連合艦隊へ、開戦命令を伝えるべく使いしようとしている。かつて日清ノ役のまえ、北洋艦隊の鎮遠、定遠よいうたった二隻の戦艦を恐れるのあまり佐世保で退守しようとしていたころと比べると、日本海軍の飛躍はどうであろう。 ──
頭こうべ ヲメグラセバ、ワレナガラ信ジガタシ。 と、山下は述懐している。あれから僅か十年しか経っていないことが、当事者の一人である山下ですら信じ難い思いがするのである。 この当時、汽車はおそい。東京を夜発た
ち、佐世保には翌五日の午後六時三十分に着いた。 彼のカバンの中には、海軍の用語でいう、 「封緘ふうかん
命令」 が、入っている。連合艦隊司令長官東郷平八郎に対する命令書であり、ことばの本来の意味から言えば、指定の時間に指定の場所で封を切るベこものであった。今度の場合、緘と
ざされた封は二通で、ひとつは命令書であり、ひとつは勅語が入っていた。 勅語の内容は、露国政府と断交するにいあたったやむを得ざる事情を述べたあと、 「朕ちん
が政府に命じて露国と交渉を断ちわが独立自衛のために自由の行動をとらしむることに決定せり、朕は卿けい
等ら の忠誠武勇に信頼し、その目的を達し、以も
って帝国の光栄を全くせしむことを期す」 というものであった。 山下はランチで岸を離れ、やがて旗艦 「三笠」 の艦上にのぼった時は、午後七時である。 |