〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/31 (土) 

砲 火 (九)

連合艦隊は佐世保にいる。
それに対する出撃命令は東京の軍令部から出るわけであるが、この日発せられたのは電報でなく、使者であった。使者はこの二月四日の夜、汽車で東京を発ち、東海道をくだった。使者として選ばれたのは、軍令部参謀山下源太郎大佐である。
出撃を命ずるための使者が東京から夜汽車の乗り込むという悠長なことをしたのは、電報では秘密保持がむずかしいということもあったであろう。しかしそういう防諜ぼうちょう 上のことよりも、一分一秒をいそぐ事情ではなかったことによる。
この時期、ロシアの驚くべき感覚は、日本をあれほど圧迫していながら、日本にはとうてい対露戦の能力はなく、日本からすすんで戦端を開くことはあるまいとみていたことであった。ロシアの計画では、日露戦争は一年ないし二年先であると見、理想的には二年の準備期間を持ったあげく、全力をあげて日本を叩き潰すということであった。
そのあたりは大国の感覚であった。
二月四日の午後六時、日本は御前会議において国交断絶を決定した。
翌五日、外務省は露都ペテルブルグにいる栗野慎一郎公使に打電し、その公文をロシア政府に渡すことを命ずるとともに、東京にあっては六日、外相小村寿太郎が、駐日公使ローゼンを外務省に招き、国交断絶を宣言したが、ローゼンは明らかにとまどった表情をし、
「国交断絶とはなにを意味するのか、戦争を意味するのか」
と、たずねた。国交断絶とは、具体的には平時互いに交換している外交団を引き揚げ、それぞれに残留している両国の国籍人も同時に引き揚げてしまうということである。むろん断交したあと、何が起こっても両国のあいだに平時のルールによる外交交渉というものはあり得ない。そのなにごと・・・・ というなかには、むろん戦争状態をも含みうるから、このローゼン公使の質問は愚問というべきであった。というより、ローゼンですら、日本から断交や戦争をしかけるはずがないとたか・・ をくくっていた。
小村は学生に質問された法科大学の教授のような返答をした。
「断交は戦争ではない」
ローゼンの質問に対しては、そう答えるのがもっとも語意に忠実である。むろん小村はそこに外交的駈引きをを含めている。小村は断交後できるだけ早期に先制攻撃を仕掛けようとしている日本陸海軍の作戦計画を知りぬいていた。
この断交の報を受けたロシアの極東総督のアレクセーエフは対日圧迫の急先鋒きゅうせんぽう でありながら、口癖に 「猿に戦争が出来るか」 と言っており、この時も、
「断交と言っても、戦争を意味しておらぬ。日本には開戦にいたらざる国力上の十分な理由がある。予はそれを知っている」
と言い、本国にもそういう意見を具申しようとしていた。その時期、つまり四日夜、山下源太郎は東海道線のくだし列車の中にあった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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