〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/31 (土) 

砲 火 (八)

ついで旅順艦隊に対する戦術である。
この旅順港は、ロシアが山も島も湾口も、鉄とベトン (コンクリート)よろ ってしまうほどの砲台群で武装していることは、日本側も想像している。ロシア艦隊はそこを巣にしている。
それを撃つといってもとても入り込むことは出来ない。
「港外に誘い出して撃つ」
と言うのが、最初からの考えであった。しかしロシア艦隊はせっかくの安全な場所を捨ててうまく外洋に出て来るかどうか。この出て来るかどうかが、日露間の海軍の勝敗の分かれ目になるはずであった。
「出てこないかも知れない」
という懸念を、つよく持っている軍令部員もいた。ロシア艦隊は旅順港の奥に引っ込んだまま決戦を避け、やがてバルチック海軍が回航されて来てから合流し、日本に倍する兵力をもって決戦を挑んでくるとすれば、日本の負けであった。
「その場合は、陸軍をして旅順要塞ようさい を攻めしめる一方、港口に汽船を沈めてフタをしてしまう」
と、意見具申をしていたのは米西戦争でのサンチアゴ軍港の閉塞へいそく を見て来た秋山真之であったが、しかし開戦までは正式には取り上げられていなかった。陸軍が旅順要塞を攻略するということも、当初の陸軍戦略の予定にのぼっていない。
ともかくも、ロシア艦隊が外洋に出て来てくれれば、この懸念は解消してしまうことであった。
ついでながら、日本政府は対露戦については国防上の準備は整えていたものの、戦争に踏み切ることをためらいぬいた。
去年から進行中の対露交渉についても、回を重ねるにつれてロシアの回答が硬化し、ついにはロシアから返答も来なくなった。日本政府は外交交渉による前途に絶望し、何度か断行しようとしたが、そのつど明治帝は許さなかった。日本宮廷は公家くげ 的な伝統からしてきわめて非軍事的な性格と思想を持っており、明治帝もその例外ではなかった。
が、陸軍が断交を決意せざるを得なかった契機は、二月一日に入電したロシア皇帝による対日作戦計画の裁可という報である。大山巌はこの日いそぎ参内さんだい して開戦を決すべき事態であることを奏上した。
海軍の山本権兵衛がそれを決意したのは、二月三日、旅順艦隊が大挙出港したという急報が入ったときである。
情報は正しかった。同艦隊は三日に出港し、同夜大連だいれん へ行き、四日に帰港しているのである。ただし外港に碇泊ていはく した。もっとも警報当時は 「ゆくさきは不明」 であった。権兵衛の戦略から言えばこれほどの好機はなかった。洋上でこれを捕え、大痛撃を与えるべきであった。
断交の決定はその翌四日におこなわれた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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