〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/30 (金) 

砲 火 (三)

ロシア陸海軍の計画の粗雑さは、日本の軍事力の実勢を、数字だけで判断し、その能力については何の顧慮もはらわなかったところにあるらしい。ロシアの将軍たちは最初から日本の陸海軍を物の数に入れず、自然、まじめにその実勢と実態を調べようとはしなかった。
たとえばロシア皇帝が日本に対し宣戦布告した日、ロシア陸軍における二人の重要人物が、この戦争をどう指導するかについて会合した。前陸軍大臣であるワンノフスキーと、現陸軍大臣であるクロパトキンの二人である。
結果から見れば、この会合の内容ほど愚劣なものはなかった。
── 両国の戦力の比をどう見るか。
というのが議題で、これについてクロパトキンは、
「日本兵一人半に対しロシア兵一人を配してゆけばよい」
と言うと、ワンノフスキーは、
「それは日本兵を過大に見すぎている。日本兵二人にロシア兵一人を配すれば十分である」
と言った。
あとで、すでに大蔵大臣を罷免されていたウィッテはこの話を聞き、
「これが、敵味方の軍事状態に最も精通しているはずの新旧陸相の意見なのである」
と、大いに皮肉ったが、それでもウィッテはクロパトキンの能力や思考法に対してだけは幾分かの信頼をおいていた。
クロパトキンは宣戦布告後、ほどなく軍政の座からおりて出征軍司令官として極東の戦場に赴くことになった時、その挨拶のためにウィッテの私邸を訪問した。
この時ウィッテに語った戦略・戦術は、右のような粗放なものではない。
「日本軍の作戦計画と準備は意外なもので、これに対抗するには従来の考え方をあらためねばならない」
と言う。従来の考えとは、鎧袖一触に蹴散らすという景気のいい思考をさす。このためには大兵をどんどん極東に送らねばならないが、シベリア鉄道の輸送力には限界があって一時に送ることは出来ない。逐次送る。時間がかかる。
「その時間を稼ぐことに勝負のかぎがかかっています」
時間稼ぎが、クロパトキン戦略の基本方針であった。日本軍に数倍する大兵力の集結を待ち、最後の決戦を予定するが、それまでの戦闘は出来るだけ兵力の使い減らしを避け、日本軍に対しては適当に消耗を強いつつ、何段かに分けて後退して行く。
その 「最終決戦」 の線はハルビン (ハルピン) におく、とクロパトキンは言う。さすがにロシア陸軍きっての名将といわれた男だけに、来るべき満州平野での戦いの様相を、的確に想像できる頭脳を持っていた。 「一撃撤退」 というこの不思議な作戦は、ロシア陸軍の伝統的作戦であり、敵の補給線が伸びるだけ伸びてついに絶えたころに大反撃に出る。かつてはナポレオンもこれに屈し、後年ヒトラーもこれに屈した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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