日本国がロシア国に対して国交断絶を通告したのは、明示三十七年二月六日であった。 ロシアの宣戦布告は九日であり、日本は十日であったが、しかしすでに戦闘はそれ以前から始まっている。 話は、前後する。日露両国の戦略を述べておかねばならない。 陸軍参謀本部の総長大山巌
が、作戦計画を立てている次長児玉源太郎に対し、 「児玉サン、何度も申しますが、長くはいけませんぞ」 ということを彼の言うように何度も言ったが、児玉はむろん百も承知していた。戦いが長びけば日本の戦力はからからに干あがってしまい、日本は自壊するのである。 要するに、戦略の主眼は短期間に出来るだけ華やかな成果をあげ、そのあとは外交でいう心理的契機サイコロジカルモメント
をとらえて平和に持ち込むことであり、この主眼を外してはこの戦争はまったく成り立たない事を、政府要人の全員が知っていた。 このため、目指す決戦場に敵より早い時間内に敵よりも多い兵力を送り、結集し、攻撃を仕掛けねばならない。敵はまだ準備がととのわない。当然、勝ち得るし、内外の目に映った成果はおそらく華やかであろう。これが、たとえば鴨緑江おうりょっこう
作戦であった。 ところが、敵よりも早い時間内に大兵力を遠い予定戦場に集めるというのは、国力である。 海陸の輸送力であった。維新後まだ三十余年しか経た
っていない日本では、軍隊輸送のために使える国内幹線鉄道は一日十四列車しか動かし得ない。海上輸送にいたっては、軍隊輸送に使える汽船はわずか三、四十万トンにすぎなかった。ロシアとのスピード競争においてこの貧弱な輸送力をどう使って勝ち得るかということにこの戦略を技術的に消化する課題がかかっている。さらには、陸兵を海上輸送するに当って、ロシアの強力な極東艦隊
(旅順・浦塩ウラジオ
、正称は太平洋艦隊) が黙っているはずがない。 当然、日本艦隊との間に制海権の争奪戦が行われる。これに日本海軍が勝ち得るかという問題がある。 勝つとして朝鮮に上陸した第一軍は日露戦争における第一番の戦いを鴨緑江付近で戦うであろう。 第二軍は南満州に上陸し、リネウィッチ兵団が根拠地としている遼陽りょうよう
付近へ進み、これを撃滅する。 この当初、旅順要塞についてはただちにこれを攻撃するという計画は保留していたから、作戦はこの二本立てであった。 「なにはともあれ、緒戦しょせん
において勝って世界を驚倒させねば、外債募集がどうにもならぬ」 と児玉源太郎がたえず言っていたように、緒戦勝利というものに戦時経済の重大問題までがかかっていた。 |