〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/28 (水) 

開 戦 へ (七)

── 朝鮮の北半分はほしい。
よいうロシア側の要求は (むろん中立地帯という名目になっているにせよ) 日本側を震え上がらせた。
ロシアはすでに満州を奪ってしまっており、その武力を背景にした開発企業は満州国境から北朝鮮をおさえている。もしロシア側の言うように朝鮮半島を北と南の二つに分割してしまうとなれば、どうであろう。ロシアの武力は強い。その南下の欲望の強さは、ヨーロッパにおける帝国主義の歴史始まって以来のものである。早晩、軍隊を南下させて必ず 「南」 を併呑しようとする。 「南」 の支持国である日本は、そのとき三十九度線上で防衛戦を演じねばならないであろう。それをやらねば日本列島そのものまでゆくゆくはロシアの南下運動のエネルギーに食われてしまい、少なくとも対馬と北海道はロシアのゆう になってしまうに違いない。
ちなみにロシア政府では、侵略主義者がすでに宮廷を握ってしまっており、穏健な人物だと見られていた内務大臣のプレーヴェですら、
「そもそもロシア帝国が今日このように盛大さを誇りえているのはすべて軍人の力によるもので、外交官のおかげではない。極東問題のごときはよろしく外交官のペン先よりも、軍人の銃剣をもって解決するのが本筋である」
と言っていた。
銃剣で解決するということがロシアの態度の裏にある以上、日本の解決案に対し、妥協の匂いがまったくない回答を出してくることは当然であろう。むしろ挑戦を主眼としていた。しかし強大国ロシアは、弱小国日本が気が狂わない限り戦いなど決意するはずがないと思い込んでいる。皇帝ニコライ二世が、 「ちん が戦いを欲しない以上、日露間に戦いはあり得ない」 と言ったのは、べつにごうご傲語ごうご したわけでなく、それがロシア人の常識的観測であった。今旅順の要塞を強化し、シベリア鉄道で満州に兵力をどんどん送っているのは 「銃剣外交」 の威力を高めるためであり、必ずしも対日戦を予想してのことではない。予想するのもばかばかしいという意識が、ロシアの政治家にも軍人にもあった。
日本はロシアの強硬な回答に対し、折れざるを得なかった。
小村外相は、ローゼン公使に対し、これ以上譲ることが出来ないという、ぎりぎりの譲歩案を出した。
要するに満州挑戦交換案というか、ロシアは満州を自由にせよ、その代わり朝鮮に対してはいっさい手を出さない、というものであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next