天才にはときに学校教育というのは不必要であるかもしれない。 児玉源太郎は戦国時代の武将や、もしくはナポレオンによって一兵卒から抜擢された将軍たちのように、士官学校を出ていなかった。 彼は十七歳の少年兵として戊辰戦争に参加し、奥州から函館へ転戦した。そのあと大阪の玉造
の仮設された 「兵学寮」 に三ヶ月ばかりいたというのが、彼の唯一の学歴である。 そのあと、六等下士官というものに任ぜられ、ついで権曹長 (軍曹)
にすすんだ。明治三年、十九歳のときである。彼は少年軍曹からたたきあげた男であり、おなじく長州出身の乃木 希典まれすけ
が戊辰戦争が終わるとほどなくいきなり少佐に任命されてことを思うと、児玉の出発点はかならずしも幸福ではない。 が、明治十年の西南ノ役のころには乃木と同格の少佐になっており、すでに才幹をみとめられて熊本鎮台付の参謀になっていた。齢二十六歳である。 その後日本陸軍の成長段階の中で児玉の半生は密着している。彼の軍事学は、独学であった。 陸軍がドイツ方式に改めるべく先ず陸軍大学校を開き、ついでドイツ陸軍の参謀少佐メッケルを招聘しょうへい
して陸軍大学校講師とし、これによって日本の戦術思想を一変せしめたとき、たとえば秋山好古ら若い将校たちはその第一期の学生になったが、児玉源太郎は学生にはならなかった。なぜならば彼はすでに三十四歳の大佐で、参謀本部第一局長になってしまっていた。 彼はこの翌年兼務して陸軍大学校の幹事
(校長) になった。校長としてメッケルの講義を聞いたのだが、彼の一生から考えると、この時期、幼少の頃藩校で初等から中等程度の教育を受けて以来、はじめて教師に物を教えられるという経験を持った。 要するに児玉は学生ではなく自由な聴講者としてメッケルの講義を聞いたのだが、メッケルはしばしば、児玉の天才的な頭脳に驚嘆し、日本でのすねての予定が終わったあと、ひとから、 「あなたが日本で教えた者たちの中で、これはと思ったのはたれですか」 と聞かれたとき、言下に、 「コダマだ」 と答えたと言う。児玉は、メッケルが一つを説けば連想を十も二十も働かせて吸収してしまうという不思議な頭脳を持っていた。 それに性格が陽気で屈託がなく、しかも作戦家であるほかに経綸けいりん
の才があり、さらには無欲であるがためにその政治的才能は同時代のたれよりもすぐれていた。この政治的才能があった為にかえって便利使いされ、陸軍大臣以外の大臣もしばしばつとめさせられるというはめになった。 その男が、はるか後輩の村田怡与造のあとを襲って参謀本部次長になり、作戦畑にもどった。 児玉の作戦家としての名はすでに各国武官の間に聞こえていたから、この人事が公表された時、 「日本は対露戦を決意した」 という情報が、駐日各国公使館から、それぞれの本国へ打電されたほどであった。 |