この開戦への決意に先だち、日本陸軍にとって重大な事態が起こった。 参謀本部次長田村怡与造
が病死してしまったことである。田村は 「今信玄」 といわれ、対露戦の研究の権威であった。 日清戦争のときの作戦は、戦術の神さまと言われた川上操六が立案遂行し、川上は戦後、あとにロシアが来るとして対露戦研究に没頭したが、過労で急逝した。 その川上の対露戦研究を田村怡与造がひきついで研究を重ねた。 田村は士官学校の第二期生で、甲州
(山梨県) の出身である。甲州と言うことの連想から今信玄というあだなができたのであろう。 対露戦というのは、この作戦を研究すること自体、心理的重圧から抜け出ることが出来ない。勝ち目を見出すことがきわめて少ないからであり、その辛労が川上の命を奪い、今度は田村の命を奪った。やがてそれを継いだ児玉源太郎の命をも奪うのだが、ただしその死は戦後である。 田村怡与造がこの年の十月一日、日石病院で死ぬと、その後任が問題になった。 ついでながら参謀総長は大山巌であった。大山はいわば最高責任者で、実務の一切は次長がやる慣例になっている。ちなみに次長であった田村は、少将であった。 「あとを、わしがやります」 と、児玉が、陸軍の元老の山県有朋と大山巌の前で言ったが、児玉はこれより前から、田村に万一のことがあった場合自分が出ざるを得ないと覚悟していたらしい。 能力からいえば児玉は田村よりも数倍上であろう。日清戦争における川上操六に比べても、独創性において勝っていることはたしかであった。 が、児玉は次長をやるには偉くなりすぎてしまっている。三年前に陸軍大臣まで遣った古参の中将で、来年は大将に昇進するはずだし、現在、内務大臣、台湾総督であった。たかが少将がやる次長職につくというのは、異例の職階降下である。 が、児玉は生来そういうことには頓着のあに人柄で、見まわしたところ、対露戦の作戦を立て得るのは全陸軍で自分以外にないとみるとさっさとそう決意した。 山県も、大山もよろこんだ。 ついでながら山県有朋は、 ──
大山さんさえよければ、わしは参謀総長の労をとってもいい。 と、言い出したのだが、児玉はそいつは私の方がごめんです、と笑いとばしてひっこめさせてしまった。 山県は総大将に不向きの男で、何事にも我説や自分一流の好みがあり、それを下に押し付けるところがある。長州人の児玉にとって山県は長州軍閥の大親分であったが、その下では自由な活動が出来ないと思っていた。 そこへゆくと薩摩人の大山巌は生まれながらの総大将といったところがあり、いっさいを部下に任せて染む。児玉は、大山を頭にいただけば思う存分の仕事が出来ると思っていた。 むろん、そのとおりになった。
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