満州朝鮮旅行から帰った近藤廉平は、たれよりも先ず渋沢栄一に会い、つぶさに現地での見聞を報告した。 「どういうか、シベリアから満州にかけての大平原はもはや鉄の色で塗りつぶされよとしているといっていいせしょう。いたるところでロシアの大部隊が移動し、旅順では要塞工事がすすみ、海上にはロシア軍艦がたえず出没し、もはや極東の地図は一変しようとしています。ロシア軍の兵力は時と共にふえてきている。やがては日本は圧倒されて自滅するでしょう」 この近藤の報告は、渋沢を動揺させた。渋沢は本来、軍人の観察眼や軍人の国際政略などを一切信用しない男だったが、報告者が近藤廉平だけに、その観察を信じた。 その後数日して渋沢の事務所に和服姿の児玉がやって来た。 ついでながら児玉はこの短い期間のうちに重大な転身を遂げてしまっていた。彼は文部大臣をやめ、内務大臣もかめ
(台湾総督はそのまま) 官職としてはそれより低い参謀本部次長の席にみずから志願してついた。このことについてはおとで触れるが、渋沢事務所を訪ねて来たのは、参謀本部次長になった翌日の十月十三日であった。しかもこの天才的な作戦家は、軍服の窮屈さがあまり好きでなく、羽織袴という姿である。 「近藤君から話を聞きました」 と、渋沢は言った。 渋沢はつや
のいい童顔の持ち主だが、この日は血の気がなかった。 「児玉さんはいくさの指揮をされることになるのだが、勝つ見込みはどの程度です」 「勝つというところまではゆかない。国家の総力を挙げて、なんとか優勢な辺りで引き分けにしたいということが、せいいっぱいの見とおしです」 「そこまでゆきますか」 「作戦の妙を得、将士が死力を尽くせばなんとかゆくでしょう。あとは外交です。それと戦費調達です」 「ともかく」 と、児玉が言った。 「このまま時が移れば移るほどロシア側に有利で、日本側に不利です。二年も経てば極東ロシア軍の兵力はぼう大なものになり、その兵力を背景にいよいよ日本を圧迫するでしょう。その時起た
ち上がっても、もはや勝負にもなにもなりません。今なら、なんとかなる。日本としては万死に一生を期して戦うほか、残された道がない」 とまで言うと、児玉は両眼からおびただしい涙を流した。明治後三十数年にわたってようやく今日の域にまで達した日本国はこの一戦で或いは亡びるかも知れない。そのことを陸軍作戦のすべてを担当する児玉自身が言っているのである。 渋沢も、泣きだした。 「児玉さん、私も一兵卒として働きます」 と言い、戦費調達にはどんな無理でもやりましょう、と言った。渋沢のこの決断が、このあと二十八日に開かれた銀行倶楽部クラブ
での例会での総意になり、開戦への協力態勢をつくることが決議された。 |