〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/27 (火) 

開 戦 へ (二)

渋沢栄一は、せっかく訪ねて来た児玉源太郎を追い帰すわけにもゆかず、
「では一時間だけ」
と言って、応接室に案内し、秘書に対し、今から出かけて行く先に対して一時間の遅刻をする旨の電話をさせた。
対座するとすぐ、
「児玉さん」
と、渋沢は言った。
「児玉さん、何度も申上げている通りです。日本はロシアを相手に戦争出来るような金はありませんよ。戦い半ばで国家は破産し、敵弾によらずして滅びます」
と、渋沢が説得を繰り返した。もともと国力が脾弱ひよわ なうえに、今不景気のどん底にいる。日本中の銀行の金庫をかきさがしても、いくらの金も出てこない、と渋沢は数字を挙げて言うのである。
渋沢は、利根川沿いの血洗島ちあらいじま という村の富農の子で、幕末、百姓の出ながら攘夷志士の群れに投じて当時流行の爆発をしようとしたこともある。
のち運命的ないきさつで一橋家に召し抱えられ、徳川慶喜よしのぶ に信頼された。慶応年間の京にあっては渋沢は一橋家の周旋役として他藩との折衝に当り、慶喜が将軍になると、軽格ながら幕臣になったが、たまたまパリで万国博覧会が企画され、日本も招待されたので、渋沢はその幕府代表の随員として渡仏した。
その外遊中に幕府が瓦解し、帰国して徳川家の整理に当ったが、のち新政府の大蔵省に出仕し、ついで官をやめて野にもどり、日本に欧米風の財界をつくるために奔走し、市中銀行を最初におこしただけでなく、ほとんどあらゆる産業をおこしたといっていいほどの多岐ににわたる活躍をした。
この旧幕臣渋沢に対して、児玉は十七歳のとき、長州支藩 (徳山藩) の藩士として官軍の下級指揮官になり、戊辰戦争に参加し、奥州まで行き、徳川体制をつぶすことに功があったというあたりが、この新興国家の面白さであろう。
この一時間の会談の結果は、児玉にとって不本意なものになった。渋沢が持説どおりの非戦論を言うのみで、物別れになった。
は、児玉はあきらめなかった。渋沢に次ぐ財界の実両者である近藤廉平れんぺい にも会い、ぜひ満州・朝鮮に旅行して、ロシアがそこにどれほどの大規模な軍事進出をしているかということを実地に見てきてくれ、と言った。
「見てから、財界の今の方向がそのままでいいかどうか、もう一度検討してくれ」
としつこく頼んだ。
近藤廉平も 「日本の財政でいくさを考えるなど妄想に過ぎない」 という渋沢論の支持者であったから、はじめは気乗り薄だったが、児玉のすすめが執拗だったので、腰をあげた。
それが十月に帰国したとき、近藤廉平の意見は一変してしまっていた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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