明治三十六年のこのような時期、兜町
の渋沢英一の事務所の受付に、白い詰襟つめえり
服の面会人があらわれた。齢のころは五十ぐらいの小柄な男である。頭が里芋の子のように丸く、きれいに禿ているが、目に愛嬌があり、どこか子供っぽくてたえずくるくる動いている。 「たのむ。渋沢サンはいるかね」 と言いながら、受付の台にあご・・
を乗せるようなかっこうをし、指先でコツコツたたいている。せいぜい小学校の分校主任といったような男だった。 「どなたでございましょうか」 受付の若い男は警戒した。日本財界の大御所といわれている渋沢栄一を訪ねて来るような種族ではとうていない。 「コダマじゃよ」 お名刺をお持ちでいらっしゃいましょうか」 「アア、名刺か」 あわて者らしく、胸の辺りをさぐっていたが、忘れて来たらしく、まあええ、コダマと伝えてくれればわかる、と言った。 男は児玉源太郎である。 現役の陸軍中将ながら、その政治的才腕を買われて、畑違いの分野も主管した。明治三十一年台湾総督に任じ、同三十三年陸軍大臣を兼ね、同三十五年陸相兼任を解く、同三十六年内務大臣を兼任、ついで文部大臣をも兼任し現在に至っている。結局日露戦争の陸軍作戦はこの不世出の作戦家といわれた男が担当することになるのだが、この時期はまだその方面に転出していない。 受付は、なおも疑った。しかし児玉が受付台にあごを乗せてニコニコしだしたのでその笑顔に負けてとりつぐことにした。 が、やがて出て来て、 「お約束がないから面会は出来かねるということでございます。それに主人ももうすぐ出かけますので、時間もございません」 と、言った。 児玉は当惑したが、しかし渋沢がもうすぐ出かけるということに希望をもったらしく、出かけるというのはアレかね、この廊下を通って出て来るわけかね、と受付に反問した。 受付はいやな顔をして、うなずいた。 「そんならここで待たせてもらおう」 と、そこにあった腰掛に腰をおろした。足を組んだところを見ると、子供のように小さい短靴をはいている。 やがて渋沢が秘書を連れ、外出しようとして廊下へ出ると、そこに児玉がいるのを知って驚いた。 「あまたでしたか」 渋沢は、児玉の用件がほぼ分かっている。まずい男が来たと思ったが、しかし当方に非礼があったためのっけから詫わ
びてかかれねばならなかった。児玉にすれば自然な作戦であったともいえるであろう。 渋沢は、財政上の非戦論者であった。 児玉にすればすでに対露戦問題は、ロシア側の圧倒的な強気政策によって戦わざるを得ないところまで来ており、内閣も軍部もほぼその決意をせねばならぬ所まで来ていた。しかし、軍費をまかなう財界が非戦論である以上、どうにもならない。
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