〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/26 (月) 

風 雲 (二十一)

日高は同じ薩摩人として東郷という人物が、どれほどの才能があるかはほぼ知っているつもりであった。あれは日清戦争の直前、大佐で予備役に編入されかかった男ではないか。病身でよく休む、ということが予備役編入名簿に入りかけた理由だが、有能ならいかに病身でも整理リストに入るはずがないのである。日高はそう思っている。
それに、東郷も日高もほぼ同時期に少尉に任官し、今はともに中将だが、こんにち海軍畑の下馬評では日高はっゆくゆく大将になるであろう、東郷はおそらく今の舞鶴鎮守府司令長官を最後に、中将どまりで現役を退くことになるにちがいない、と言われていた。
── その東郷に、このおれが。
と、日高が自分の耳を疑いたくなったのは無理もない。日高は自信家であった。それも過剰なほどに、海軍司令官としての自分に能力について信じることがあつい。
日高にすれば開戦を前に辞めさせられるばかりか、その後任者が東郷であるということで、二重の侮辱を感じた。
日高は、冷静さを失った。悔しさの余り、腰に帯びている短剣をいきなり抜き、
「権兵衛っ、俺はなにも言わぬ、この短剣で俺を刺し殺してくれ」
と、叫んだ。ヨーロッパの文明国の海軍ではこんな馬鹿な光景はないであろう。このアジアの新興国にあっては、将官ですらすさまじい蛮性を残していた。日高は、薩摩のボッケモンの対決のつもりで、同郷の権兵衛とにらみあっている。
「日高、狂うのはもっともじゃ」
と、権兵衛は言った。
「わしがお前でも、短剣を抜いたろう。ところで、話を聞け。わしとお前とはまだ幕府があった頃から一緒に歩いて来た。お前に対してわいはなんの秘密もなく、お前も同然のはずだ。それだけに互いの長所も短所も知り抜いている。お前の長所は、非常な勇気があって、ずば抜けて頭がいいことだ。このことはこの俺がたれよりも知っている。ところがここに短所がある。お前は何事についても自負心が強く、常に自分を押し出さないと気がすまない。さらには自分でこうと思い込めば、他の言うことをいっさい聞かない」
山本権兵衛は、東郷と日高の優劣論を、当の日高を前にして述べた。
「なるほど東郷は、才は君に劣る」
「その劣る東郷を」
と、日高はなおも探検を離さず、いよいよ激した。権兵衛はそれをおさえ、先ず聞いてくれ、と言った。権兵衛の見るところ、大軍の総帥は片々たる才気だけでつとまるものではなく、全人格がそれに いているかどうかで決まる、と思っている。
「日露の国交が破れた場合、作戦用兵の大方針は大本営が決定し、それを海上の艦隊司令長官に示達する。艦隊司令長官たる者は、大本営の手足のごとく動いてもらわねばならないが、その点、お前では不安である。お前は気に入らぬと自分勝手の料簡りょうけん をたてて中央の命令に従わぬかも知れぬ。ここを考えてみよ。もしある命令を出した中央が、その命令を出先艦隊がきいていないことを知らず、艦隊が命令どおり動いていると信じ、つぎの作戦計画を立てたとすれば、その結果はどうなると思う。作戦は支離滅裂になり、一軍は崩壊し、ついに国家は滅びるだろう」
権兵衛はつづけた。
「そこへ行くと、東郷と言う男にはそういう不安はいささかもない。大本営があたえるそのつどそのつどの方針に忠実であろうし、それに臨機応変の処置も取れる。戦国時代の英雄豪傑という役割ならお前の方がはるかに適任だろうが、近代国家の軍隊の総指揮官はそうはいかない。東郷を選んだのはそういうことだ。わしはお前に変わらぬ友情を持っている。しかし個人の友情を、国家の大事に代えることは出来ない」
と言うと、日高はうなずきはじめ、やがて涙を浮かべ、わしが悪かった、そういう理由だとすれば怒るべき筋合いは少しもない、あやまる、と言って頭を下げた。やがて頭を上げたが、ひどく淋しそうだった。この時の日高の表情を、権兵衛はあの顔だけは生涯忘れられない、と、のちのちまで言った。
じつを言うと、この前日に権兵衛はこの用件で東郷と会ったのである。同席したのは、海軍司令部長の伊東祐亨であった。
権兵衛は先ず東郷の健康を聞いた。その話題がすむと、ごくさりげなく、
「君にやってもらいたいことがある。べつに大したことではないが、日高の後釜あとがま にすわってもらいたい。どうだ」
と言うと、東郷は無表情であった。しばらく考えていたが、やがて、
「よろしい」
とうなずいた。
ここで、権兵衛は釘をさした。
── 万事、中央の司令どおりに動いてもらわねばならないが、これはどうだ。
と言うと、東郷は二度目にうなずき、分かっている、しかし大本たいほん はそれでゆくとして、現場でのかけひきはぜんぶわしに任せてもらうがそれでよろしいな、と言った。むろんそれが軍隊指揮の常識だから、権兵衛にも異存はない。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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