東郷平八郎という、世間でさほどの名のある存在でもないこの人物が、この時期に常備艦隊司令長官になるについては、いろいろ話がある。 それまでの常備艦隊司令長官は、日高壮之丞
であった。 日高は薩摩生まれで、戊辰戦争には山本権兵衛とともに一藩兵として従軍した。当時権兵衛とは仲がよく、戊辰の戦乱がしずまってから東京に出て来て、一緒に相撲取りになろうとしたほどの仲である。 そのあと、明治三年、一緒に築地の海軍兵学寮に入った。権兵衛は戊辰のとき年をごまかして少年兵として出征したから、入校の時は
「幼年生徒」 という資格だった。日高は 「壮年生徒」 という資格で、幼年は南寮で起居し、壮年は北寮で起居した。 卒業後の日高はおもに艦隊勤務で終始し、明治の日本が経験したすべての戦役に出た。 台湾征討には
「筑紫」 、西南ノ役には 「日進」 の乗組士官として従軍し、日清戦争には主力艦である 「橋立」 の艦長として戦場をかけまわり、その後累進して今は常備艦隊司令長官として佐世保港にいる。 「絵にかいたようなボッケモン」 というのが薩摩人のあいだでの日高の評であった。ボッケモンというのは薩摩特有の血性男児をさし、勇猛できかん気で頑固といったほどの意味である。 日露間の雲行きがあやしくなってくるにつれ、戦時の連合艦隊司令長官は当然日高がなるだろうと見られていたし、現職の常備艦隊司令長官である以上、これははずれりことはまずない。日高自身もそう思っていた。 ところが、海軍大臣山本権兵衛は、この時期になって日高を舞鶴鎮守府司令長官の閑職に移し、海上兵力の総帥の座に東郷平八郎をすえてしまったのである。 この人事を日高に「申し渡すことは幼友達の権兵衛にとっては厄介な仕事であったらしい。 彼は先ず佐世保の日高に電報を打ち、急ぎ東上するよう要請した。日高は吉報であると思い、東上して海軍大臣室に入ると、権兵衛は浮かぬ顔でいる。 さすがに、要件を切り出しかねて黙っていると、気の短い日高はいらいらして、 「ときにおれを呼んだのは何の用か」 と身を乗り出した。 それでも権兵衛は日高の顔を見つめたまましばらく黙っていたが、やがて、 「じつは、お前にかわってもらいたいと思うのだが」 と、言った。日高は、真っ赤になった。理由を言え、理由があるのか、と怒鳴ると、権兵衛はいよいよ言葉をしぶらせて、 「理由というほどのことはない。お前ももう一年三ヶ月在職したからこのあたりで気分をかえてもよいと思う」 と言うと、日高は腰を浮かして、テーブルをつかんで怒りだし、権兵衛だまれ、そんな子供だましの言い草におれが乗ると思うか、一体だれがおれのかわりになるんだ、 ──
じつは東郷だ。 と、権兵衛が後任者の名を明かした。この後任の男が、ゆくゆく開戦という場合、連合艦隊を率いてロシア海軍と決戦するのである。 「東郷」 と、日高壮之丞ははじめ耳をうたがい、東郷とは舞鎮のあの東郷のことか、と念を押したぐらい、この名前は彼にとって意外だった。 というより、全海軍にとって以外であったであろう。東郷は無口で地味で、自分の存在をおよそ押し出すというところがない。
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