〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/25 (日) 

風 雲 (十七)

(おかしい)
とも、真之は思った。
対露戦に対してきわめて回避的な態度をとっている元老、政府首脳、軍当局が、今にわかに開戦を決意して戦時人事を開始するとは考えられない。
(人事局の連中だけが、血迷っているのではないか)
真之は、うたがった。
この人物のおもしろさは、海軍省人事局の局員が彼を呼びつけて艦隊参謀に任ずという内定人事をもたらしたことさえ、疑うことにある。天性の作戦家であろう。
作戦の要諦ようたい は、幾何学で言えば公理ともいうべき証明不要の現象ですら、いったんは疑ってかかるところにある。彼は、二人の海軍省人事局員を、信じなかった。彼らは主戦論者であり、主戦論にはやるあまり、真之を呼んで、
「君は参謀になるはずだから、東郷閣下に私的に挨拶しておくがよい」
と言ったのかもしれない。主戦論者が考えだした、開戦への気運をつくり出すための、小さな省内謀略の一つかも知れない・
(考えられることだ)
と、真之は思った。
ついでながら、作戦畑の軍人の通弊で、真之も軍事的見地を基準にする以外に国家の運命や将来を考える事の出来ない人物であった。彼は対露開戦は早ければ早いほどよいという意見を持ち、それについてこの夏前後まで海軍内部の友人だけでなく、陸軍や軍部以外の学者、文官、言論人などとその種の会合をしばしば持って来た。
彼がこの時期、海軍の友人に出した手紙にも、こう書いている。
「いま日本は天ノ時、地ノ利、人ノ和をもっともよく得た最上の時期にあり、この時期を失すれば、ロシアの軍備はいよいよ巨大になるであろう。一も二もなくけんかを吹っかけるのが上乗じょうじょう の分別で、これ以外にない。なるほど日本海軍の第三期拡張案は成功を見ている。この成功を見て、わが海軍内部ですらこれによって武装的平和が維持されるなどととなえている徒輩がある。考えてみよ。八、九隻の大艦をつくるのに十年もかかる。それよりわずか一年で敵の大艦十隻を海底にたたき沈めてしまう方がはるかに平和維持の為になるのであり、これはヤシ算ヒキ算の問題である」
いかにも軍人の思考法である。しかし対露開戦主義者は、この時期にあっては、元老や政府当局から 「一国の運命を賭け物にする国賊同然の者」 といわんばかりの批評を受けており、真之はこれも肚が立って、
「あちこちに気を配り慎重慎重といって、慎重主義のみが忠臣であるというつら をする連中が多いが、じつに不愉快である」
と言っている。
ともあれ、この頃の真之は日本国の中枢部は戦う意志なしと見、絶望していた。
その時期に、自分に対し艦隊参謀という戦時人事を洩らしてくるのは、じつにふしぎで、おそらくうそだろうと思った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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