〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/25 (日) 

風 雲 (十六)

真之が、海軍大学校から常備艦隊の参謀に転出するについて、いきさつがある。
すでに海軍では、対露外交が行き詰まりつつある情勢から、極秘裏に開戦を決意し、戦いのための人事を決定しつつあった。
海軍省人事局が、その戦いの人事についての事務局になっている。まっ先に、艦隊作戦のすべてを、三十六歳の少佐秋山真之にやらせることを決定した。
同時に、司令長官を決定した。司令長官は舞鶴鎮守府司令長官という閑職にある中将東郷平八郎を抜擢ばってき することであった。
が、難がひとつある。
東郷が、秋山真之という伊予生まれの少佐とは、ほとんど過去に接触するところがなかったということであった。
「どうせ秋山が作戦をやるのだ。となれば、東郷さんが秋山という男をよほどよく理解してくれていないと、この組み合わせはうまくゆかない」
海軍省人事局では、そのことを心配し、いっそ真之にこの人事の内定を打ち明け、東郷に会わせるがいい。幸い東郷はいま上京中である。真之にそれを言い含めればいい、とし、田中保太郎局員と千秋恭二郎局員の二人が、人事内定の翌日、海軍大学校に使いを出し、真之を海軍省に呼んだ。
「じつは、こうだ」
と、人事秘密を打ち明けた。
司令長官が東郷平八郎であると聞いたとき真之は意外な感じがした。東郷は地味な存在で、このような場合を想定しての下馬評にその名がほとんど出たことがない。
「その東郷閣下をたすけて作戦の大任をまつと うするのは君である」
と、千秋局員が小声で言ったとき、真之はこの件は当然だと思った。海軍ひろしといえども、自分以外にロシア艦隊を破り得る作戦家はいないと常に思っている。
「ところでだ」
と、千秋は言った。
「東郷閣下と君とは、同じふね に乗ったこともなく、同じ職務世界に互いに身を置いたこともない。不安はそのことである。そこで、明日といわず今夜、君は東郷閣下を訪ねて閣下の厚誼こうぎ を得てもらいたい。君が訪ねるということについては、閣下も存じおられる」
(妙なことを言う)
と、真之は思った。司令長官といい参謀といい、公務であるのにわざわざ私邸に訪ねてよしみ・・・ を結ばねばならぬというのはどういうわけであろう。第一、諸事すべて自信家である真之は、将官の私邸など、いままで訪ねたことがない。
が、千秋の顔つきがあまりにも真剣であったため、この場ではうなずいた。
「君の言う通りにする」
そう言って海軍省を辞し、大学校の教官室にもどったが、椅子にもたれてそのことを考えてみると、急にばかばかしくなった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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