秋山好古が東京へ帰ったのは、明治三十六年十月三日であry。 日露間の外交情勢はもはや救い難いまでに悪化していた。好古が帰国してから二十日余り経ってから、弟の海軍少佐秋山真之がにわかに常備艦隊の参謀に補せられた。この職は戦時にはそのまま連合艦隊の参謀になる。 「淳が、艦隊参謀になったか」 真之の昇進や任務内容には、関心をあらわに示したことのない好古が、少し驚いたような顔をした。 この人事は、見る者が見れば、日本海軍の肚
がどう決まったかが分かるはずであった。 数日して真之が信濃町の秋山家にやって来て、 「海に出ます」 と、艦隊勤務になったことを告げた。好古はすでに海軍省の者から聞いて知っていたから、ただうなずいた。 「李すえ
さんはどうしている」 と、好古は聞いた。 真之はこれより三ヶ月ばかり前、東京府平民、宮内省御用掛稲生真履の三女李子と結婚し、芝高輪の車町に住んでいる。 「はい、達者です」 と答えると、 「あれはなかなか結構な女房だ」 と、好古は、彼としては女性に対する最大の讃辞らしい言葉で、そう言った。 この兄弟はいずれも独身主義者だったが、それぞれ晩婚ながら妻をめとった。好古は少佐のとき、三十五歳で、真之はやはり少佐のとき三十六歳である。 両人とも結婚観はひどく素朴で、結婚して家庭をつくることは男児の志を弱らせるものだという不思議な信念を持っており、結婚後もそういう考え方はかわらず、好古はつねづね、後輩の将校に対し
「若い者の敵は家庭である。家庭を持てば研究心が衰える」 と言い、真之も、新婚当時、友人からそれを祝って来た手紙に対し、兄と似たような意味の手紙を書いた。 「自分は、海軍を一生の大道楽と思っている。すえは戦場で死ぬと思い、かねがね結婚というような事は思い至らなかった。ところが日露の風雲の急なるとき、にわかに素志をまげて妻定めをしたのは、べつに平和と見せかけて敵に油断させるような大計略というものでもない。これはただ、右の一生の大道楽の中途におけるほんの鬱うさ
晴らしである。もとより何人にも知らせたり披露したりはしていない。この入道・・
が」 と、自分のことを入道という。海軍作戦を大道楽としている彼は、仏門にでも入った気で 「入道」 ととなえていた。この入道がなぜ結婚をする気になったかについて、以下詳しく書いているが、要するに対露戦の気配が、日本の政府当局の恐露病によってここ当分回避へ回避へと動いていることを憤慨しながら指摘し、あまりのばかばかしさに
「高輪の仮寓かぐう にて昼寝をむさぼる」
つもりで家庭を持った、という。 |