〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/24 (土) 

風 雲 (十三)

好古がやった 「強硬偵察」 は、成功した。結局彼の足は満州における核心部にまで及んだのだが、ロシア人たちはこの人物の人柄をよほど気に入ったらしく、どこでも大層な人気だった。
ニコリスクからハバロフスクまでの鉄道沿いに多くの騎兵連隊が駐屯している。
それらの連隊の将校連中が好古の列車が着くと、停車場までやって来て、停車場の食堂へ連れて行き、シャンペンを抜いて歓迎した。列車が昼着こうが、深夜着こうが、これら沿線の騎兵将校たちは時刻などかまわない。必ず来ていた。どの男も、気持ちのいい男たちばかりで、好古を騎兵という同族グループの仲間と見ていた。
「騎兵はええ」
と、好古はテーブルをたたいて彼らの友情に感極まった。
「とくにロシア騎兵は、ええ」
と、言ったりした。好古は天性、世辞の感覚の欠けた男だったから、これは本音ほんね だった。彼は思った。この人懐っこいシベリアの快漢たちといずれは戦場で相見えねばならぬということは、どういうことであろう。
が、そのことで感傷的になるような精神の屈折は、このサムライあがりの明治の軍人は持っていなかった。むしろ男児の欣快きんかい とするところだというぐあいに、自分を訓練してきたし、これについて疑いも持っていない。相手の騎兵将校たちも、そうであった。
胸中そういう緊張の悲愴ひそう の思いがあればこそ、好古とのつか・・ のまの交歓が、いっそう深いものとなるという、心の不思議な旋律を、心得として持っていた。戦士たちが中世以来つくりあげてきたこのような心情のこれは最後の時代であったかもしれない。
ハバロフスクでは、リネウィッチ大将が、露土戦争でもらった聖ジョージ章を胸につけて、好古を待っていた。
リネウィッチは、ロシア陸軍きっての頭脳であるクロパトキンとつねに併称される人材で、戦術家としてはむしろクロパトキン以上であるとさえ言われていた。
彼は、義和団事件 (北進戦争) のときにロシア軍司令官として北京に入城し、その後ひきつづき駐屯司令官になったとき、同職の好古と往来があった。ついでなからリネウィッチは、北京入城のとき、彼の配下のロシア兵のすざまじい掠奪を制止しなかったばかりか、彼自身も略奪品を着服したということで、当時の各国の在清武官のあいだで評判であった。
さらについでながら、このリネウィッチは、こののち、日露戦争のとき、総司令官のクロパトキン大将を補佐して作戦を立て、奉天会戦のときは第一軍司令官になって戦いを指揮した人物である。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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