満州とその境界のシベリアは、いま帝政ロシアにとって最大の機密地帯になっている。さかんに駐屯兵力が増強されており、要所々々の要塞化もすすんでいる。 当然ながら日本の参謀本部はその実体を知りたがっているが、いかに間諜
を入れても、ロシア側の防諜が厳重で、どうも核心を突いた諜報報告を持っていない。 この地を踏む前、好古は参謀本部で、 「わしゃ、それを見てくる」 と、事もなげに言って、参謀将校たちを驚かせた。ある参謀などは、 「秋山閣下、いままでよほど有能な間諜でも第一級の報告はもただしておらないのです。無理をなされぬようにねがいます」 「わしゃ騎兵じゃ」 好古は、笑いとばした。騎兵の機能の第一は、長躯して敵中深く入り敵情を調べるということにある。好古は、それを言っている。彼にすれば開戦のとき、日本騎兵を率いて戦わねばならぬのは兒便自身であり、あらかじめ敵の態勢を知っておくことは、彼自身の問題でもあった。 そこで、ロシア側の接待委員に言った。 「いまハバロフスクの総督代理に任じておられるリネウィッチ大将とは、わしは天津在任中、さかんに往来して親しくしてもらった。ここまで来てリネウィッチ大将に挨拶して行かぬというのは、日本武士道がゆるしませぬのじゃ」 わざとフランスの田舎なまりを使い、のんきそうな顔であくまで言い張ったから接待委員たちは困ってしまった。ニコリクスからハバロフスクに行く途中の新しい軍事施設は、日本人には絶対に見せたくない。 「まことに残念ですが」 と、接待委員たちは言った。 「この演習に招待申上げた方々の単独旅行は認められないのです」 「旅行じゃない。挨拶だけじゃが」 「挨拶には旅行が付属します」 「あたりまえではないか」 と、好古は相手の肩をたたいた。 相手は困って、 「皇帝の勅許を得なくてはならないのです」 と、言った。こう言えば好古が引っ込んでくれるだろうと思ったのだが、好古は大いにもっともだ、とうなずき、 「勅許を得てくれ」 と、言った。 やむなくニコリスクのロシア側はペテルブルグに問い合わせの電報を打った。 意外にも一日を経て返電が入った。 「勅許が下りた」 ということであった。この電報には、ロシア将校たちはみなふしぎに思った。しかし、ロシア皇帝にすれば、日本人に世界最大のロシア陸軍の威容を見せておくということは、見せないよりも政治的効果が大きいと判断したのだろう。 この電報が入ったのは、ハバロフスクへ行く列車の発車二時間前で、夜の十二時であった。 好古は、出発した。 |