風 雲
(七) | 船が浦塩港に入ったのは、九月十一日の朝である。この軍港に、ロシアはあらゆる軍事設備をほどこしているうえに、すでに極東での戦争も予想して増強されている浦塩艦隊の戦艦、巡洋艦が、うずくまる豹の群れのような威容を見せている。 ともかくも、港を見、山河を見て感ずるのは、鉄で鎧
われているといった感じで、極東に対するロシアの意志がどういうものであるかを、無言で物語っている。 「旅順は、ここ以上だそうですな」 と、大庭二郎少佐がささやいた。 埠頭ふとう
には、出迎えのロシア陸軍の若い参謀大尉とほか十人ばかりの将校が、威儀を正して待っていた。 出迎えの大尉は、ミルスキーと言い、黒竜総督府の参謀である。 それらが、汽艇から、埠頭に移った好古を見ると、いっせいに敬礼をした。 さらに驚くべきことには、その背後に一個小隊ほどの儀仗兵ぎじょうへい
のようなものが、堵列とれつ している。 (わしを、皇族と間違うとりゃせぬか) 好古は、思った。どう見ても皇族の待遇であった。この厚遇は、おそらく中央からそう命ぜられているらしく、視察期間中、ずっと変わらなかった。ロシアの意志がどこにあるかが、わかるようであろう。 宿まではわずかな距離であったが、華麗な馬車が、用意されていた。その馬車も、ペテルブルグあたりで大公殿下が乗り回しているようなしろものである。 ホテルは、陸軍の将校団の経営になるもので、日本でいえば偕行社かいこうしゃ
の宿舎にあたるが、その建物の立派さといい、館内の豪華さといい、日本でもこれほどのホテルは、一軒以上はあない。 みじかい休息のあと、ミルスキー大尉が謹厳な顔つきでやって来て、市内をご案内いたします、という。 例の馬車である。 馭者ぎょしゃ
台には、曹長と軍曹が乗っていた。 二時間ばかり案内してくれたあと、将校クラブで、昼食をとった。 「ウラジオストックのご印象は、いかがでございますか」 とミルスキー大尉が、きれいなフランス語で好古に話しかけてきた。彼はこの日本の少将がフランス語に堪能だということを、あらかじめ知っていた。 好古は体をゆすって、 「二時間ぐらいでわかりゃせんよ」 と、突如日本語で言ったため、ミルスキーは面食らった。それを大庭少佐が、ロシア語になおして仲介した。 フランスの話が出た。 「閣下は、フランスで騎兵をお学びになりましたのでございますね」 「騎兵」 好古はつぶやきながら、びしゃっと、首筋のハエをたたきつぶした。つぶれたハエが、掌に汁を流してくっついている。好古はそのままの手で、ジョッキの柄え
をつかんだ。ミルスキーはあきれ顔をした。 「いや、遊びに行っただけです」 |
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