風 雲
(六) | 真之の帰りぎわになって、好古は、 「ちかく、
あし はシベリアへ行く」 と、ひとことだけ言った。 真之は、内心おどろいた。シベリアといえばロシアのシベリア・満州占拠で世界中が沸騰している今日、問題の地帯ではないか。 「シベリアへ、なにをしに」 「御用だ」 (御用はわかっている) と思ったが、好古が話したがらない以上こちらから聞くわけにはいかない。 「風邪を召しませんように」 と、玄関で言い、真之は辞した。 それから数日のち、九月四日、好古は横浜から船に乗り、浦塩うらじお
へ向かった。 同行の大庭二郎歩兵少佐は、のちに陸軍大将になった男である。 ── 秋山さんは船中、たえずにこにこしながら、酒ばかり飲んでいた。 と、大庭は、好古との船旅をのちのちまで懐かしがった。 大庭にすれば、対露作戦を考えねばならぬ一人として、日本騎兵がどの程度の力を持っているかを、この騎兵の神さまのような男に聞いておきたかったが、どうも失礼なような気がして聞けない。 明日は浦塩という前夜、大庭は、まことに単純な質問で恐れ入りますが、対露戦の場合、日本騎兵とロシア騎兵との問題はどうでありましょう、と聞いた。 好古はうなずき、 「ぜんぶ死ぬ覚悟で行く。もし全滅しても、軍作戦全体の上から見てそれが生きてくれればいいのだ。騎兵というのは、そういう性質になっている」 と、人事のように言った。 「で、ロシア騎兵が、どの程度強いか」 大庭が、さらに言うと、好古は不思議そうな顔でこの歩兵少佐をながめて、 「それは大庭、これからそれを見に行くんじゃないか」 と、笑った。 「ところで、ロシア陸軍が、わざわざ大演習を日本の武官に見せるというのは、どういうことだと思われます」 「震えあがらせようとしているのだ」 と、好古は笑いだした。 世界一の陸軍を日本人に見せることによって、日本人にとてもかなわないという気を起こさせ、対露戦へ容易に踏み切らせないようにする。ロシア側が、シベリア鉄道の完成までは、満州での戦いを避けたがっていることは、今ロシアの駐在武官をしている明石あかし
大佐から報告が入っている。 大演習を参観させることはそれがねらいであったし、これはとくにロシア皇帝自身の指示によるものであった。 猿、と皇帝は、こと日本人となると、口ぎたなくなる。 「猿がおどろくだろう」 と、つぶやいたことであろう。
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