〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/23 (金) 

風 雲 (六)

真之の帰りぎわになって、好古は、
「ちかく、 あし・・ はシベリアへ行く」
と、ひとことだけ言った。
真之は、内心おどろいた。シベリアといえばロシアのシベリア・満州占拠で世界中が沸騰している今日、問題の地帯ではないか。
「シベリアへ、なにをしに」
「御用だ」
(御用はわかっている)
と思ったが、好古が話したがらない以上こちらから聞くわけにはいかない。
「風邪を召しませんように」
と、玄関で言い、真之は辞した。
それから数日のち、九月四日、好古は横浜から船に乗り、浦塩うらじお へ向かった。
同行の大庭二郎歩兵少佐は、のちに陸軍大将になった男である。
── 秋山さんは船中、たえずにこにこしながら、酒ばかり飲んでいた。
と、大庭は、好古との船旅をのちのちまで懐かしがった。
大庭にすれば、対露作戦を考えねばならぬ一人として、日本騎兵がどの程度の力を持っているかを、この騎兵の神さまのような男に聞いておきたかったが、どうも失礼なような気がして聞けない。
明日は浦塩という前夜、大庭は、まことに単純な質問で恐れ入りますが、対露戦の場合、日本騎兵とロシア騎兵との問題はどうでありましょう、と聞いた。
好古はうなずき、
「ぜんぶ死ぬ覚悟で行く。もし全滅しても、軍作戦全体の上から見てそれが生きてくれればいいのだ。騎兵というのは、そういう性質になっている」
と、人事のように言った。
「で、ロシア騎兵が、どの程度強いか」
大庭が、さらに言うと、好古は不思議そうな顔でこの歩兵少佐をながめて、
「それは大庭、これからそれを見に行くんじゃないか」
と、笑った。
「ところで、ロシア陸軍が、わざわざ大演習を日本の武官に見せるというのは、どういうことだと思われます」
「震えあがらせようとしているのだ」
と、好古は笑いだした。
世界一の陸軍を日本人に見せることによって、日本人にとてもかなわないという気を起こさせ、対露戦へ容易に踏み切らせないようにする。ロシア側が、シベリア鉄道の完成までは、満州での戦いを避けたがっていることは、今ロシアの駐在武官をしている明石あかし 大佐から報告が入っている。
大演習を参観させることはそれがねらいであったし、これはとくにロシア皇帝自身の指示によるものであった。
猿、と皇帝は、こと日本人となると、口ぎたなくなる。
「猿がおどろくだろう」
と、つぶやいたことであろう。
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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