明治三十六年の初夏には、秋山好古は、清国から帰って、千葉県習志野
にある騎兵第一旅団長に補されていた。 好古四十五歳である。 少将といえば老人の匂いがするが、好古の体力は青年のころと少しも変わりがなく、酒量も減らず、読書力はむしろふえた。読書の主なものは、フランス語で書かれた軍書のたぐいであり、特に騎兵書と、ロシア関係のものを多く読んだ。 好古が、清国での任務から騎兵本来の現場にもどされたのは、日本陸軍がとりつつある臨戦体制のあらわれの一つだった。 いざ開戦となれば、日本騎兵を率いて世界一のロシア騎兵に当たり得る者は、好古のほかいないというのが、すでに定評であった。 習志野に赴任して何ヶ月か経つと、陸軍省に呼ばれた。 「ロシアから妙な招待状が来ておる」 と、次官から言われた。 招待というのは、ロシアの陸軍省からであった。この九月、シベリアのニコリスクにおいてロシア陸軍の大演習を行うにつき、貴国から参戦武官を差遣さけん
されたい、というものであった。 「君に行ってもらいたい。ほかに大庭おおば
二郎歩兵少佐を出す」 この日、四谷信濃町の家に帰ると、弟の真之が来ていた。真之は、この兄を相変らず親代わりとして仕え、海上勤務でない限り月に一度は顔を出すようにしている。 「おい淳、このところいよいよ酒がひどくなったそうじゃないか」 と、好古はこわい顔で言った。好古は陸軍きっての大酒家のくせに、この弟が酒を飲むのを常に喜ばない。 真之はこんな勝手な説教はない、と思い、兄あに
さんの酒こそ大変じゃが、と言うと、好古は、 あし・・
の酒は、めしじゃ」 と、言った。 好古の場合はどうも体質で、酒がなければ栄養失調のおち入ってしまうといった酒だから、戦場で、それも交戦中でも飲み続けていたし、今でも旅団長室の水差しに酒を入れておいて水代わりに飲む。 ところが好古の言う真之の酒は、無理酒だというのである。料亭で飲んで酒量を誇ったり、同僚と会合して大気炎をあげるために飲む。 「このごろは、陸軍の連中と飲んどるそうじゃないか」 と、好古は言った。陸軍の参謀本部の若い参謀たちと真之はしばしば会合を持ち、ロシア情勢を論じ、政府の軟弱をののしり、主戦論的な気炎をあげているということを、好古は耳にしていた。 「酒を飲んで兵を談ずるというのは、古来下げ
の下だと言われたものだ。戦争という国家存亡の危険事を、酒間であげつらうようなことではどうにもならんぞな」 真之は、いやな顔で聞いていた。かえりみると、多少そういうところがあったからである。 |