〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/22 (木) 

風 雲 (二)

広瀬は、さすがにロシア海軍については、微細なところにまで観察していた。
「彼らは、日本海軍など眼中においていない」
と、言う。
そのためもあって、軍港や造船所を見学したいと申し出ると、断られたことがない。むしろ彼らにすれば、日本の海軍士官にロシア海軍の威容を見せてやることによって、その闘志をくじこうとするもののようであった。
おりからロシアは、大規模な海軍建設の真っ最中であり、どの造船所でも大小の軍艦が造られていた。広瀬は、ペテルブルグの海軍工廠こうしょう やガレルニーの造船所は数回見学したし、ほかにバルチック造船所、セヴァストーポリの海軍工廠も見た。
戦艦ペレスウェートの進水式にも参列することが出来た。約一万二千トンで、速力が速いが、それだけに防御力は弱い。
「わが 『敷島』 と戦えば、 は敷島にある」
という推断を、広瀬は細かい数字をあげてくだした。
ワシーリ島の南端にあるバルチック造船所では、戦艦ポベーダや装甲巡洋艦グロムボイを見た。
ペテルブルグの関所というべき軍港が、クロンシュタットである。ここに鎮守府があり、司令長官は海軍中将ステパン・オーシポウィッチ・マカロフであった。
ロシア海軍きっての名将で、その著 「戦術論」 は、真之も広瀬も早くから読んでいた。
「豪快さはないが、想像していたとおりの理知的な風貌だった」
などと、細かくその印象を話した。
翌日も、広瀬は来た。
ロシア海軍についてのおなじ話題である。
今度は、真之の方がいくつかの質問を用意して、広瀬がそれに答えるというかたちをとった。午後一時から夜の九時ごろまでこの主題の会話がつづいた。
「仕官の質はどうか」
「決して悪くない」
と、広瀬は答えた。
「士官はほとんどが貴族だから、皇帝への忠誠心も強い」
「水兵の質は、どうか」
広瀬は、これについても細かく語った。一般に判断力はにぶいが、しかし命ぜられたことは忠実である。しかも砲術の能力は相当なものだ、などと言った。
「ただ、水兵の士気は疑問だ」
と、広瀬は言う。
彼らは農奴かそれに近い階級の出身で、徴兵で取られて来ており、軍人というより気質的には農民である。ロシア農民は物事に能動的でなく、一種特別のあきらめを体質的に持っている。これがため、海軍軍人であることは敵艦を沈めるためであるという考え方においてにぶく、どちらかといえば、戦争に出て行くことは敵の砲弾にあたるために行くのだというそういう受動的な性根が抜け切れない、と広瀬は言った。
広瀬はさらに、ロシア帝国の地盤を多年にわたってゆるがしつづけている社会不安と革命運動の動きについても、語った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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