〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/20 (火) 

権 兵 衛 の こ と (十)

権兵衛は海軍建設者としては、世界の海軍史上最大の男のひとりであることはまぎれもなおい。
彼は、ほとんど無に近いところから新海軍を設計し、建設し、いわば海軍オーナーとして日清戦争の 「海戦」 の設計まで仕遂げた。
清国海軍が、定遠と鎮遠というずば抜けて巨大な戦艦を持ちながら、その他の持ち船となると軽量まちまちで、速力も一般ににぶく、にぶさも平均的でなく遅速まちまちであるということに権兵衛は目をつけた。
それに勝ち得る日本艦隊をワン・セットそろえるに当って、まず出来るだけ高速艦を外国に注文した。予算が貧弱だから清国の艦よりひとまわり小粒の艦ばかりであったが、高速で、平均した艦隊速度も清国より速く、要するに艦隊の運動性をきわめて高くした。極端に言えば軽捷けいしょう な狼の群れをもってさい の群れを襲おうという考え方であり、その方法で、艦隊をつくった。
大砲も、そうである。敵は巨砲を持っているが、こちらは艦載速射砲をうんと積み、敵に致命傷をあたえないまでも、小口径の砲弾を短時間内におびただしく敵艦に送り込むことによって、敵の艦上建造物を ぎ倒し、敵乗組員の艦上活動をさまたげ、やがては火災を発せしめて艦そのものを戦闘不能におちいらせようとした。
その権兵衛 の構想はにごとに成功した。
さらに権兵衛は人事においても妙手であった。
この日清戦争のときの連合艦隊司令長官は以前に登場したように伊藤裕亨すけゆき であるが、しかし難がある。自重家であり、ときに無用の自重をすることだった。
このため権兵衛は、海軍作戦の総攬者そうらんしゃ である軍令部長の樺山資紀かばやますけのり を現地に派遣し、汽船西京丸に乗せて艦隊に同行させた。樺山はいわば猛将型で向こう意気が強いため、これとかみ合わせれば伊東も無用の自重癖を出すまいと権兵衛は思ったのである。もっとも命令が二途に出ることがないように、現場指揮権はあくまでも伊東に握らせ、樺山の立場は現地巡察程度にとどめさせた。
この間、権兵衛は彼の大先輩である将官たちを手駒のように使っているが、身分は一大佐であるにすぎない。
こういう権兵衛が、一大佐の身でまるで万能者のように自在に物事をなし得たのは、上に西郷従道という海軍大臣がひかえていたからだということはすでに述べた。
西郷は陸軍中将から転じて海軍大臣になったということも、すでに述べた。徹頭徹尾、西郷は権兵衛に任せ切った。
「西郷従道という庇護者ひごしゃ がもしいなかったら、権兵衛のようなかど・・ の多い、風変わりな人物はおそらく二等巡洋艦の艦長ぐらいで退役になっていたかも知れない。そのかわり、日清戦争も、日露戦争も、あるいはどうなっていたか、わからない」
ということは、のちに海軍内部でもよく言われた。
明治史という場合、海軍にかぎっては山本権兵衛一人の働きをよほど過大に見ても、見すぎることはないようである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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