山本権兵衛の若いころは、乱暴で負けん気が強くて、手のつけられぬところがあった。彼の兵学寮での同期生は、たいていは彼の挑戦によって取っ組み合いをし、さんざん撲られた経験を持っている。 これはひとつは、薩摩の風でもある。 薩摩の小学校や中学校では、新学年などでクラスの人員構成があらたまると、喧嘩がはじまる。毎日何組もの喧嘩が行われ、強弱の序列が決まって行き、最強の強者が出るまで終わらない。それが出ると、クイラスにはじめて平和が来る。旧幕時代はむろんそうだが、この風は太平洋戦争の終了まで続いた。 権兵衛と東郷平八郎とは、おなじく戊辰戦争に参加した薩摩の復員兵仲間だが、東郷の方が五つ年上で、彼がイギリスの商船学校を卒業して帰国した時、権兵衛と一時同じ軍艦に乗った。権兵衛はすでに海軍兵学寮は出ていたが、階級は東郷より下だった。 「そんなばかなことはない。東郷がおれより海軍の学問技術が達者だというのか」 というのが権兵衛の日ごろの鬱憤
だったらしい。あるとき、甲板で論議になった。 「そんなばかなことがあるか」 と、権兵衛は、彼の日本人ばなれした論理的才能を駆使して上官の東郷を押さえつけようとしたが、東郷も負けずに主張し、ついに結着がつかなくなった。 あとは、喧嘩である。 ということに薩摩ではなるのだが、もはや両人とも海軍士官になっている以上、そういう若者にせ
の頃の真似は出来ない。 「よし、マスト登りで勝負をつけよう」 と、権兵衛は叫んだ。 東郷も、応じた。 権兵衛は、顔つきも気性も豹のような男だが、マスト登りにかけてもこのネコ科の猛獣に似て、たれにも負けなかった。 たちまち檣頭しょうとう
に登ってしまった。 が、東郷はなかほどにも達していない。イギリスの本場仕込みとは思えぬほどにじつに下手で不器用で、しかもどこかでズボンをひっかけたのか裾まで裂いてしまっている。 勝負がついたから、東郷はもう途中から降りてもいいのだが、しかしヨチヨチと登っている。ついに檣頭に達してから、 「俺おい
のまけじゃ」 と言って降りはじめた。檣頭にいた権兵衛はさらさらと降りて、降りるほうまで東郷を負かした。 終わってから権兵衛は士官次室で、 「東郷は、ちょっと見込みのある男だ」 と、まるで自分のほうが上級者であるように東郷をほめた。ほめた理由は、 「あいつは最後まで勝負を捨てなんだ。敵のおれがたとえ檣頭まで行っていてもひょっとして急性盲腸炎にでもなってマストからころげ落ちるかもしれない。東郷はそこを期待していたわけではなかろうが、一軍の大将というのは、ああいうしぶとさが必要だ」 ということであった。
|