この明治二十六年の山本権兵衛による海軍幹部の大整理のときに、 「海軍大佐東郷平八郎」 という名前も、整理されるべきリストにのぼっていた。東郷は英国の商船学校の出であり、国際法についてはなかなかの造詣
があるといわれていたが、人柄が無口なせいか、その戦術能力については良否いずれの評判もなかった。さらにいえば、多病である。病気加療ということで実務から遠ざかった期間も少なくない。 「この男は、どうかね」 と、海軍大臣の西郷従道は言った。西郷と東郷とは、同じ鹿児島城下のしかも同町内の出身であった。加治屋街である。権兵衛も加治屋町出身であった。 だから権兵衛は、東郷とは多少接触が深く、彼が持っている将領としてのなにかを早くから見抜いていたふしがある。 「この男は、少し様子を見ましょう」 「様子を見るとは?」 「横須賀に繋いである浪速にでも乗せておきましょう」 ということで東郷は再び浪速の艦長になりそのまま日清戦争に参加した。 この東郷が、開戦早々、清国陸兵を満載した英国汽船の高陞こうしょう
号を撃沈し、国際問題を引き起こしたことは、すでに触れた。 英国の各氏はこの 「暴挙」 を批難し、外相キンバレーは青木駐英公使に向かい、日本政府の責任を追及した。結局、事態が明らかになるとともに浪速の処置は国際法上合法であることが分かって英国側の態度も冷静になったが、しかし海軍主事山本権兵衛は東郷をそのままにはしなかった。わざわざ戦場から浪速を帰国させ、東郷を海軍省に呼び、 「なるほど君の処置は国際法上間違ってはいなかったが、しかし周到な考慮を経た決断とは思わない」 と、東郷に言った。 東郷は、山本とは同郷出身であるうえに同輩の大佐であり、遠慮をしなかった。 「私の処置は正しい」 と、東郷は言った。彼にすれば、国際法のあらゆる法規に照らして撃沈の決断を下した以上、とやかく言われることはないと思った。 「そのとおりだ」
と、権兵衛はうなずいた。 「法律上においては君の処置が正しい。その証拠に当初激昂した英国の世論も、やがて君の正しさがわかって鎮静した。しかし一軍艦の艦長はその責務内において国家を代表するものだ」 権兵衛は、東郷に軍艦もしくは艦隊の行動というものがつねに国際的配慮をあわせて考えて行なわるべきものだということを説き、 「もし君が、撃沈にさいし高陞号に対し英国国旗をおろすことを命じたなら、英国の世論をこうも刺戟しなかったであろう。さらに私ならば、別な処置をとる。撃沈をせず、拿捕する。どうだ。これなら、外交上の問題はいささかもおこるまい」 東郷は黙って微笑し、権兵衛の説に服する旨を表情だけであらわした権兵衛はこのとき、東郷の資質にある周到性と決断力と、そしてなによりもその従順さを大きく評価したらしい。
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