山本権兵衛が、ドイツの軍艦ライプチッヒ号に乗り込んで海軍修業をしていたころつまり明治十年ごろのドイツ海軍というのは、たいしたものではなかった。 「船の運用は大したものだったが、戦術とか用兵とかいう方面はひどく遅れていた」 と、権兵衛は後に語っている。 艦内で、戦術講義がある。その講義内容は貧弱で、陸軍戦術をまね、それの翻訳調であったり、海軍独特の行動を説明するにしても陸軍の例をひいて説明した。ドイツはあくまでも陸軍国であり、その国が大海軍建設に乗り出すのは、明治三十年代になってからである。 「そいつは、こうじゃありませんか」 と、権兵衛は質問好きで、一つ問題をゆきつめ、しばしば教官と議論になってしまうことがあったが、戦術教官は決して不快がらず、むしろ権兵衛の頭脳を畏敬
するところがあった。他の士官たちも、権兵衛に一目おいた。その理由の一つは権兵衛は少年兵として戊辰戦争に参加したという、いわば実弾の中をくぐっただけに、戦場の諸問題を実感とともに語ることが出来る。 「権兵衛は、勇士である」 と、ドイツ人たちのたれもが言った。 この乗組時代、ドイツが中米のニカラグアと紛争をおこし、ドイツ政府がライプチッヒ号をして同国へ急行せしめるという事件があった。 当然、戦争になる。ただ陸戦である。軍艦から陸戦隊と大砲二門を揚陸し、戦闘に参加せしめることになったが、 「権兵衛も従軍してもらいた」 と、同艦の艦長が希望した。権兵衛の役目は、揚陸した大砲の指揮官としてである。ただしこれについては、日本政府にことわらなければならない。 ところが日本政府は、海軍留学生を他国の無縁の戦争に使うことをきらい、拒絶したため、権兵衛は同艦を途中で退艦し、日本へ帰った。 「ドイツ海軍には陸戦隊の訓練が出来ていない。だから、実戦経験者である自分を使おうとしたのだ」 と、権兵衛は後に語った。 その後十年ほどのあいだでの権兵衛の経歴は、他の海軍士官とかわりはない。軍艦の分隊長をしたり、副長をつとめたり、輸入軍艦の回航委員をつとめたり、艦長に任じられたりしたが、彼の運命と日本海軍の運命がかわるのは、明治二十年、三十六歳で海軍大臣の伝令使
(副官) になってからである。当時、海軍少佐であった。 このあたりから、軍政を担当した。もっとも担当中も、高雄や高千穂の艦長として海に出たりしていたが、いよいよそういう彼が陸に腰をすえたのは、明治二十四年、四十歳、海軍大佐のとき、海軍大臣の
「官房主事」 というものになってからである。 通称、 「海軍主事」 といわれた。日本海軍の作り直しともいうべき大仕事の辣腕らつわん
をふるうのは、このときからである。 |