世界史の上で、ときに民族というものが後世の想像を絶する奇蹟のようなものを演ずることがあるが、日清戦争か日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない。 日清戦争の段階での日本海軍は、海軍とは名のみの、ぼろ汽船に大砲を積んだだけといってもいいような軍艦が多く、むろん戦艦も持っていない。一等装甲巡洋艦もない。速力の早い二等巡洋艦以下を持って艦隊と称しているだけであったが、戦後十年の日露戦争直前には巨大海軍ともいうべきものをつくりあげ、世界の五大海軍国の末端につらなるようになった。 「日本人は、信じ難い事をなした」 と、当時、英国の海軍評論家アーキバルト・S・ハードは、言っている。日本は日露戦争直前において、今まで持ったこともない第一級の戦艦六隻と、第一級の装甲巡洋艦六隻をそろえ、いわゆる六六制による新海軍をつくった。これだけでも驚嘆すべきであるのに、その軍艦はことごとく思い切った最新の計画が用いられており、たとえば非装甲の防護巡洋艦などはほとんどつくられていない。英国海軍がなおこの種の巡洋艦をつくりつつあったのに、である。 日本人は、大げさに言えば飲まず食わずでつくった。 その日本海軍の設計者が、この建艦計画当時やっと海軍少将になったばかりの山本権兵衛である。エネルギーは国民そのものに帰せられるべきだが、日本海軍の設計と推進者はただ一人この薩摩生まれの男に帰せられねばならない。
山本権兵衛について、かつて幾度かふれてきたが、彼は戊辰戦争のころは薩摩の陸兵として従軍し、北越から東北へ転戦した。 戦乱が終わったあと、東京へ出て来たが、やることがないため相撲取りになろうとし、当時の横綱陣幕
久五郎のもとに入門を頼みに行った。もっとも、これは断られた。 権兵衛は鹿児島城下で暮していた少年のころから相撲が得意で、 「花車はなぐるま
」 というシコ名までもっていたのである。 そのあと、郷党の総帥である西郷隆盛に説論され、西郷の紹介で勝海舟のもとへ行って、海軍の話を聞いたりして、当時築地に出来たばかりの海軍兵学校に入ったが、どちらかといえば海軍をあまり好きではなかったらしい。 海軍兵学校寮では、この当時の薩摩の若者の風ふう
で、喧嘩ばかりをした。学科は数学が得意で、実科はとくにマスト登りが得意だった。 少尉補になってから、ドイツ軍艦ヴィネタ号にあずけられ、ついでおなじくドイツ軍艦ライプチッヒ号にあずけられ、乗組期間中に任官した。 戊辰ぼしん
戦役の生き残りだから、多少齢をくっていて、任官は明治十年、すでに二十六歳になっていた。 |