なにごとでも人に指示することの好きな子規は、自分の葬儀についても、すでに指示を書き残している。 「葬式の広告などは無用に候」 その理由は、家も町内も狭い。広告を見て人が大勢やって来ると、柩
の動きがとれなくなる、というのである。子規は何事にも自分量のある男で、会葬者は、二、三十人が限度だと見ていた。。 子規は、無宗教である。多少禅には耳をかたむけたことはあるが、そういうものの助を借りなくても自分自身を始末できるということを、ごく自然に思っていた。 しかしながら自然な男だから、僧侶の読経どきょう
はこばまない。僧侶は何宗でもいい。しかし柩の前で、弔辞を読み上げたり、故人の経歴を読み上げたりすることはこれまた、 「無用に候」 であった。戒名かいみょう
というものも、 「無用に候」 である。それも力りき
みかえって自分の無宗教主義をつらぬこうという姿勢ではなく、子規らしく実用的なことである。。子規は日本の古い俳人や歌人のことを調べて年表を作っていたとき、戒名が出て来ると、ふつうそれが長たらしいために欄の中に書き込むkとtが出来ず、弱ったことがある。無くもがなのものだと思った。 墓碑についても、よく自然石などを用いた気取ったものがあるが、あれはいやみである、と思っていた。ごくふつうのがいい。子規は平らかでごく普通な、さりげない常識性の世界に美を見出そうとした人物である。 通夜についても、 「柩の前にて通夜すること無用に候」 と書いたが、それでは力みすぎると思ったのか、 「通夜するとも代りあひて致すべく候」 と、書きそえた。ついで、通夜の涙のことだが、柩の前で空涙をこぼされるとどうも仰々しくていけない、と思い、 「談笑平生のごとくあるべく候」 と、書いた。 このことは、まわりの者はみな知っているし、虚子ほか古い連中はなるべく故人の意思にそいたいと思った。 虚子は、沈黙の中ですわっている。 二十分ばかりそそうしているうち、隣家の陸くが
羯南かつなん 、それに碧梧桐と鼠骨がやって来て、すわった。みなずっと看病しつづけて来た人たちだけに、お八重に黙礼し、だまって子規の枕頭にすわるだけでよかった。 「葬儀の打ち合わせは、どうします」 と、羯南は、若い連中に聞いた。河東碧梧桐が、 「私どもは若くて、何も知りませんから」 羯南の指示をあおぎたい、と言った。 「そうかもしれませんな。年をとるということは、葬儀の指示が出来るということかも知れませんな」 四十代の羯南は言った。 子規はこの羯南に予備門の入学試験で上京して来て以来ずっと世話になりっぱなしであった。とうとう最後まで羯南の世話になることになった。 |