〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/01/15 (木) 

十 七 夜 (四)

子規が死んだのは、明治三十五年九月十九日の午前一時である。
この前日の十八日は、日中は医者が来りたれが来たりして、人の出入りがあり、病室でずっと眠ったように仰臥ぎょうが している子規にも人の声が届いたらしく、
「いま、たれが来ておいでるのぞい」
と、妹のお律に聞いたりした。
「キヨシさんです。それに秉さん。それと・・・・・」
と、お律がいちいち名前をあげてゆくと、子規はもう表情のない顔でうなずいたりしていた。
夜になると、みな帰ってしまい、ちょうど当番にあたっていた虚子だけが残った。
子規は、蚊帳かや の中にいる。眠っているのか、けはい・・・ が静まっている。
夜半、虚子は隣室に蒲団を敷いたが、どうも眠れそうにない。庭へ出てみた。
すでに十二時を過ぎている。
庭の糸瓜へちま の棚に夜露がおりているらしく、二、三枚の葉が光っていた。光っているのは、十七夜の月が赤々とのぼっているからである。この日、旧暦の十七夜にあたっていた。
虚子は座敷に戻ると、子規の蚊帳のそばに、母親のお八重が小さい影を作ってすわっていた。お八重はこれより前、自分の部屋で二、三時間眠った。虚子と睡眠を交替するために起きてくれたのである。
「キヨシさん、お休みください。また替わっていただかねばなりませんから」
と、言った。
虚子は蚊帳をのぞいた。子規はよく眠っているようであった。
「お律も」
と、お八重は寝かせようとした。
虚子は隣室にひきあげ、横になった。頭の中に えざえと占めているのは、さっき見た十七夜の空である。晴れぐあいがおそろしいばかりで、大きな月がひとりうかんでいた。
虚子はわずかに眠ったらしい。
眠ったとも思えぬころ、ひどく狼狽ろうばい した声で、キヨシさん、キヨシさんと隣室から呼んでいる。お八重の声であった。虚子ははね起きた。
あとで聞いてみると、お律はまだ寝ていなかったらしく、母親と団扇を使いながら話をしていた。途中でふと蚊帳の中が気になり、のぞいてみると、子規はもう呼吸をしていなかった。
「兄さん、兄さん」
と、お律は泣きながら子規を呼び戻そうとしたが、子規は答えない。
「お律、お医者さまを」
と、お八重は、さすがに取り乱さずにきびしく命じ、しかしそのあと虚子を呼んだときは咳き込んでいた。
お律は、はだしのまま隣家へ電話を借りに行くべく走った。
虚子は、表情にとぼしい男である。子規の顔をじっと見つめていたが、やがて立ち上がった。近所にいる碧梧桐や寒川鼠骨そこつ を呼びに行くためであった。
外に出ると、十七夜の月が、子規の生前も死後もかわりなくかがやいている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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