東京へ移ってから、真之は一度、子規を根岸の家へ見舞いに行った。 子規の病床をのぞいて。息を忘れるほどの思いをしたのは、一別以来、子規が別人のように衰えていることだった。 子規は、目をつぶったきりである。目をあけると、それだけで熱が出てきて逆上
せるような症状になるのだという。 痛むらしい。 それも、背骨、腰骨のいたるところに錐きり
で穴をあけられるような激痛だということを、真之は、子規の妹のお律から聞いた。お律にはもう娘のにおいがない。看病やつれで顔が黄ばんでしまっており、表情の動きなども、中年婦人のようににぶくなっている。 「ちかごろは、どうぞな」 と、子規は目をつぶったままたずねた。 「なんぞ、おもしろいことをおしや?」 「まあ、相変らずぞな」 と、真之は言った。少佐になり、陸おか
へあがって海軍大学校の戦術教官になった、などというような身辺報告は、病床の子規に対してなんの意味もあるまい。病人にとって、そういう世間のことは、まぶしすぎるということもあるであろう。まぶしすぎることは、ゆらい俗なことだということは、晩年、僧侶の境涯をあこがれた真之のかねて思っていることであった。 「ロシアとは、戦争するかえ」 「すれば、おそらく日本人の一割は死ぬかもしれない」 「そんなに、死ぬかえ」 子規は、目をあけた。 以下、子規は、彼がその手帳にもひそかに書き残した彼の残酷観を語る。 最初は、孝行論。 手帳は、はなしことばでつづられているから、このくだりはそれを借りる。 「孔子主義の、親に孝行せい、なんていうのは僕は大きらいだね。あんなこと、いわれると孝行が理屈のように聞こえて、きわめて不愉快だ。僕なんどは、親でも叱り飛ばすことがたびたびあるね。しかしそれがために親に対する愛情が無くなりも減じもしない」 「一方では僕は、非常に残酷な性質を持っているね。秀吉が中川清秀を犠牲にした
(筆者註・中川は賤しず ヶ岳たけ
合戦における秀吉側の前線指揮官) 、ナポレオンが何千人を一時に殺したなんていうのを聞いても、それほど残酷とは思わない。秀吉だけの事業をするには、中川一人ぐらい殺してもよいと思う。中川もまた秀吉ほどの人の犠牲なら甘んじてなってもよかろうと思う。僕が秀吉の位置にいたらやはりこんな事をやるかも知れぬ」 それから考えると、ずいぶん悪人の性質を僕は持っている。世人は悪い事をせねば善人だと思うているが、それは間違いだ。いくら悪人だって、悪い事をする機会が来なければ悪いことをするものではない。僕だって、今まで悪い事をしていないのは、機会がなかったからだ。ずいぶん残酷な事もやるつもりだがね」 子規はどういうつもりでこれをしゃべり、書いたのかわからない。どうやら戦争ということがずっと頭にあったらしい。 |