結局この日の見舞いが、真之と子規の最後の対面になってしまうのだが、しかし子規はその後も一ヶ月ばかり生きていた。 子規は、自分の死を知っている。激痛が襲ってくるたびに叫び声はあげはするが、しかし自分の死期の近いことを悲しむというふうなところはなかった。 子規がここ一年の間、苦痛のあいまあいまに書いた手紙や手記によると、自分の生死については、たとえばこういうのがある。 これは、秋田の石井露月という俳人への手紙。子規は病床で苦痛のあまり
「死にたい」 と叫ぶことがあるのを、露月がいさめた。これはその返事である。 「他人でさえそれほど (つまり露月がいさめているように)
死なせたくないといっているものを、なんで自分の命が惜しく無
うてたまるものか。その大事の大事の命も要らぬどうぞ一刻も早く死にたい、という願いは、よくよくの苦痛あるためと思わずや」 このころ、自由民権思想家の中江兆民ががん・・
になり、医師から寿命はあと一年半と宣告され、病床で 「一年有半」 といういわば生死の感懐を書いて出版し、評判になっていた。子規はそれをひとに買いにやらせて読み、詠み終わった。 「
あし・・ にくらべたら、なんぞな」 と、まわりの人がはっとするほどの微笑をうかべて、書物を枕頭におとした。 「兆民は平凡浅簿じゃな」 世評では、兆民は死の宣告を受けてもなお筆をとったというのは筆をとる者の天職をつくしたものだ、という。子規は、 「たいそうなことをいうものではない。病中筆をとるのはうさ晴らしにすぎぬ」 と、そのおなじ死病のなかにいる者としての正直なところを言う。 兆民は喉頭こうとう
がんである。 「兆民居士こじ
はのどに一つ穴があいている。自分は一つどころか腹にも背にもしり・・
にも、蜂はち の巣のように穴があいている。一年有半という期限も似たりよったりであろう。しかしながら居士
(兆民) はまだ美ということがわからない」 子規は、自分には美がある、という。じっさい、彼は病床六尺にありながら、美の行者でありつづけることでは。どういう健康人もおよばなかったであろう。庭の草をながめたり、窓の鳥籠をながめたり、俳句をつくったり、花鳥についての感想を述べたり、モルヒネを打って苦痛をはらいのけては写生帳をとりあげて、枕頭から見えるわずかな自然を絵にしている。 「美がわかれば楽しみも出来申し候」 と、書く。兆民の境地にはそれがない、という。 兆民は
「一年有半」 に、買ってきた杏あんず
を妻と一緒に食うというくだりがあるが、 「それは楽しみに違いないが、どこか一点の理がひそんでいる」 と、自分の境地と比べている。兆民も生をあきらめ、あきらめきって出来た精神の余白というものを境地としたが、子規はその余白に、絵をかいたり句をつくったりしている点、楽しみが大きい。大きい分だけ、おれのほうがえらいぞ、と誇っている。すでに子規は無邪気になっている。 |