さて、閑談。 この明治三十年代の前半に東京で流行したもののひとつは、ミルクホールであった。 それもただのミルクホールではなく、新聞の各紙がそなえつけられていて、 「牛乳、御呑みなさる御方に限り、新聞縦覧
無代の事」 という貼り紙のかかった店で、店内に各紙をを綴じた新聞があり、図書館にあるような長机がおかれていて、牛乳を注文するとそのあたりの新聞を読んでいい。給仕には桃割れ髪の小娘がいて、大きな牛乳かん・・
からコップに牛乳をついでまわる。 そういう店が、繁盛した。客にとっては牛乳よりも新聞が目当てであった。 新聞が、よく読まれた。どの町内にも一人は新聞狂のような人物がいて、時事に通じていた。それ以前のどの時代にもまして、時事というものが国民の関心事になっていた。それほど、世界ことにアジアの国際情勢と日本の運命が、切迫していたといっていい。 こころみにも筆者も、当時の新聞各紙をひろげてみる。 「露国の大兵、東亜に向ふ」 明治三十四年一月十一日の時事新報。ロシア陸軍四万がオデッサから海路極東に向かったという
(筆者註・満州を非合法占拠するのが目的である) 。 「まさに来たらんとする一大危険・露国の満州占領は東亜の平和を攪乱こうらん
す」 右は一月二十二日の万朝報よろずちょうほう
の社説。 「露清密約問題に大学教授ら憤起。伊藤内閣の軟弱外交を痛罵つうば
す」 一月二十四日報知新聞。露清密約はまだ風説の段階であったが、法科大学 (東京大学法学部) の有志教授たちが
「ロシアと開戦の機、逸すべからず」 と痛論し、あわせて伊藤博文の対露軟弱外交を憤慨し、 「いかに文化が進んでも、一国の独立を保ち得なければ、ついに何の用もなさぬ」 と、論じた。 「帝国議会は、こぞって恐露病患者」
というのは、同紙の三十日付の記事。 「福沢諭吉逝ゆ
く」 二月五日付、各紙。 「露清密約内容・満州は御意の儘」 二月二十七日付、時事。 「その筋より探知したところによれば」 と書き出しにあるが、内容は秋山好古が袁世凱から聞き込んだものが外務省に入り、この外務省で記者が取材したらしい。満州の駐兵権と行政権をロシアが清国に要求し、清国が腰砕けになって受容したらしいという記事。 「露国国旗を寸断々々ずたずた
に蹂躙じゅうりん 」 四月六日、報知。ロシアの満州横領に憤慨した清国の志士たちがこの記事の掲載日より二週間ほど前に上海の張園内のホールに集会し、抗議大会を開いた。開会に先だって辮髪べんぱつ
の志士十数人が正面に進み、正面の横に飾られていたロシア国旗を退き下ろし、寄ってたかって引き裂き、足で踏み、しかる後会長汪康年おうこうねん
氏を議長に開会、満場ロシアの横暴いきどおる声に満ちた、という。 清国にようやく国民運動が盛り上がろうとしている時期である。 |