〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/12 (月) 

列 強 (三十五)

新聞閲覧つづく。
「露国・満州占領を宣言」
というロンドン発の記事が、明治三十四年四月八日の時事新報に出ている。
見出しの 「宣言」 よいう言葉は強すぎるが、現実の問題としてロシアは事実上満州を占領しており、この間、清国の当惑と抗議にもかかわらず、ロシアはこれを既成事実として、ロシアの政府筋ですらこの既成事実を公然と揚言するにいたっているという意味である。
その意味では、この記事は正確であった。
実際には、ロシアは満州だけでなく、それに連なる韓国をも占領する意図を成長させつつあった。ロシア皇帝の寵臣に、ネゾブラゾフという退役の騎兵大尉がいる。
ウィッテに言わせれば希代きだい のくわせ者だが、しかし帝国主義的膨張期にはどの国でも必ず登場するタイプの人間で、いわば右翼の大立者おおだてもの といっていい。ロシア皇帝ニコライ二世は、このロシア宮廷ににあってはきわめて稀な雄弁の才と空想的経綸けいりん 能力を持つ男をここ数年、たれよりも信用するようになっている。
── 日露戦争の原因は、ベゾブラゾフがつくった。
とウィッテは言うが、あるいはまと・・ を射ているかも知れない。ベゾブラゾフは、この時事新報の記事が出た時期、ロシアの有力な貴族たちのあとおしのもとに皇帝に対し、
「朝鮮をも領有なさらねばなりませぬ」
と、言葉をつくして説いた。ベゾブラゾフの論旨は、
「満州と遼東を占領しただけで朝鮮を残しておいてはなにもならない。朝鮮は日本が懸命にその勢力下に置こうろしており、将来日本かれ はこの半島を足がかりにして北進の気勢を示すであろう。その日本の野心をあらかじめ砕くには、いちはやく朝鮮を取ってしまうほかない」
というものであり、骨のずい・・ からの政治的虚栄家であるニコライ二世は、自分にとって歴史的偉業になるこの案に大いに賛同した。
「しかし、朝鮮とどのようにして戦争をする」
口実がなければ、いかにこの時代の列強でも戦争を始めるわけにはいかない。
「必ずしも砲弾を用いる必要はありませぬ。朝鮮に国策会社を進出せしめ、ここであらゆる事業を起こし、産業、都市建設、鉄道・港湾建設などにロシア資本をたっぷりそそぎ込めば、それだけで朝鮮人の心を得ることが出来、他日機会があれば一挙に日本の勢力を朝鮮から駆逐する事が出来るでしょう」
ベゾブラゾフは、ニコライ二世の虚栄心に訴えるべく、
「朝鮮半島を得てはじめて陛下が欧亜にまたがる史上空前の帝国の主になられるということになります」
と、そう言った。朝鮮をもロシアをも併有した史上空前の帝国はすでにモンゴル帝国に先例があるが、産業革命以後にそういう帝国をつくりあげるという皇帝は陛下以外にないというのである。
ニコレイ二世はこれに乗った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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