このころ好古は袁世凱
から重大な機密を教えられるのだが、こういうことがあったから伊集院領事ら外交関係者が、 「秋山さんは意外な」 と、ささやきあうようになった。外交の才があるという。しかし好古自身は、 「ヘータイの本務は敵を殺すことにある。その思考法はつねに直接的で、いかにヘータイの秀才であろうと政治という複雑なものは分からないし、分かればヘータイは弱くなる。世に
醜怪なものの一つは、兵にして政を談ずる者だ」 と言っていたから、好んで外交に身を入れていたわけではない。 彼の職務が、それを含んででいるのである。彼はこの明治三十四年七月に
「清国駐屯軍守備隊」 の司令官になったが、十月には昇格して 「清国駐屯軍」 司令官を兼ねることになった。前任者は山根武亮という少将であったが、大佐の身で兼務した。 そういう職であるため、駐屯地である
「清国」 そのものの政情を知っておかなければならないし、それとの外交問題の責任も、領事とともに負わなければならない。 清王朝における最大の実力者は李鴻章であったが、この人物は北清事変が片づくとともにこの年、病没した。 かわって声望を高めはじめているのは、袁世凱である。 「梟雄きょうゆう
」 とのちにいわれた男だけに、李鴻章よりもはるかに食えない。李はなんといっても衰亡して行く王朝の柱石といったところがあったが、袁はそういう真面目さはない。清朝の臣でありながら、すでに清王朝の滅びを見越して自立する考えを持っていた。 袁は、李が科挙かきょ
(高等官登用試験) を経た学者であるのに対し、それの落第生あがりである。中国には昔から金で官職を買う 「捐納えんのう
」 という制度があったが、袁はその方法で官吏になり、やがて武職に転じ、兵を養って軍閥を形成して行った。 日清戦争ののちは清国でも軍隊の洋式化がさかんになったが、袁はそれろ担当し、そういう軍隊勢力を背景に政界に進出し、北清事変当時は山東巡撫という重職についた。 彼がいかに食えぬ男であるかは、北清事変の時の挙動でも分かる。あの時清国は義和団と連合してついに列国に宣戦布告するにいたるが、袁はその軍隊を最後まで山東にとどめて動かさず、清軍および義和団が潰滅すると、無傷の軍隊を率いて戦後経営にのり出した。 袁世凱はのちに革命派と手を握り合って清王朝をたおし、初代の中華民国大総統になるのだが、すぐ本心をあらわして帝政をしく謀略をすすめ、自分が皇帝になろyとし、やがて天下の信望を失い、混乱の中で病没するにいたる。 好古が清国駐屯軍司令官として天津にいたとき、この袁世凱が直隷総督であった。 その袁が、他人目ひとめ
にもおかしいほど好古を信頼したのである。 |