〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/09 (金) 

列 強 (三十)

しかしこの風景を見て、日本人のつらさをぼやいているだけが能であるまいとも思い、
「せめて、道普請みちぶしん でもしましょうか」
と、好古は言った。
道路を広げるのである。広げるだけでなくカマボコ型につくって排水をよくし、道のまわりには陽よけの街路樹を植えれば、わずかでも街として見られるであろう。
「しかし、予算などありませんよ」
と、領事伊集院彦吉が言った。
「いや、いいです。ちかく私の隷下れいか に工兵が一個小隊入ります。工兵にやらせれば、まあただ・・ です。日本人は、金より体をつかってなんとかやってゆく以外にありません」
数日して、工兵小隊がやって来た。小隊長は中柴末純中尉である。
彼らは、広島から来た。天津に上陸し、白河はつか のほとりで露営し、小隊長の中柴中尉のみが好古に申告すべく司令部をめざした。
司令部といっても、急造のバラックである。
このあたりは海光寺という寺のあったところで、その広い敷地を中国から借り、ここに司令部と兵営が建てられるはずであった。
「秋山司令官どのは?」
と、中尉が、司令部の曹長に聞くと、いま領事館の方にいらっしゃる、という。
中尉は、領事館庁舎へ行った。ここは以前からある建物で、まずまずイタリア領事館ほどの建物である。
入って中庭に面したところが大広間になっている。中庭に陽があたっていつため、ソファにもたれている人影が黒い。騎兵長靴をはいた脚が、ソファの横にはみ出ている。
騎兵長靴は、むかいの平服の人 ── あとで伊集院領事であることがわかった ── としきりに話している。
「工兵中尉中柴未純ただいま到着いたしました」
と、中柴は赤い絨毯じゅうたん の上で直立不動の姿勢をとった。騎兵長靴がゆっくりと立ちあがったとき、中柴は一瞬、迷った。西洋人の将校かと思った。が、将校はすぐ、
「私が秋山じゃが」
と、のんきそうな声を出した。あとはじつに簡潔で要領のいい挨拶をした。
「貴官を待っていた。世話になる。明日にでもくわしく話そう」
と言い、大きな目をわずかに細めた。たか い鼻、赤い頬、そして髪がやや茶っぽい。というより、その茶っぽい髪もほとんどなく、前頭部は帽子で蒸れるのか禿ている。齢は四十を過ぎて二つ三つというのに、ずいぶん早い。
その翌日、司令部に行くと、好古は係官を呼び、日本租界についてのいっさいの図面を中柴に渡させた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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